セブンスデー・アドベンチスト教会

息子と呼ばれる資格

息子と呼ばれる資格

放蕩息子のたとえ
教会に通われている方の中に、「自分はたくさん罪を犯してしまうし、どうしようもない罪人だ」「自分にはクリスチャンとしての資格なんてない」と自責の念に駆られてしまう方が時々おられます。
イエスの時代でも、徴税人たちをはじめ、多くの罪人たちが同じようなことを考えていました。なぜなら、当時のファリサイ派や律法学者たちといったユダヤ社会が彼らを罪に定めていたからです。
イエスは徴税人やファリサイ派の人たちを招いて食事会を開かれたときに、放蕩息子のたとえ(ルカによる福音書15章11~32節)を話されました。
二人の息子のうち弟が、父親がまだ存命であるにもかかわらず、自分の遺産を分けてほしいと求めたのです。生きている親に対して遺産をねだる行為は不敬であり、律法違反でした。
身代(ギリシャ語でbios)というのは、「その人が持っているすべてのもの」を意味する言葉です。生命を意味する英語のbioの語源にもなっているように、そこには比喩的に「命」も含まれます。父親は、自分の命ともとれる身代を二人の兄弟に分けてやったのです。ところが、弟は財産をすべてお金に替えて家を出、財産を使い果たしてしまいました。
父親の命とも言える財産を無駄遣いした弟は、気づけば異邦の地の豚小屋で働いていました。彼は豚の餌でも食べたいと思うような生活を強いられ、ついに本心に立ち返ります。「父のところへ帰ろう」と。

父にとってはかけがえのない息子
ところが、父の家に帰るのはそう簡単な話ではありません。彼には帰ったときに父に言おうと決めていたことがありました。「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(同19節)と。
彼が、「息子と呼ばれる資格はない」と思った理由として次の三つが考えられます。①遺産をすでに分けてもらったから。②父の求める生き方とは対極に生きてきたから。③ただ空腹を満たしてくれる父の存在を求めていたから。
息子の考えは、無駄遣いしてしまった父の「命」を再び求めることでした。これでは最初に身代を求めたときの繰り返しです。
彼は「息子として」家に帰ると殺されるかもしれないと考えました。なぜなら、律法によれば、放蕩の罪を犯す息子は石打ちの刑だからです(申命記21章18~21節参照)。罰せられることがわかっていたので、「息子として」帰ることができなかったのです。ですから彼は、息子の身分を捨てて雇い人になれば、罰を免れることができると考えました。律法の定める罰が、彼を息子としてふさわしくない存在、罪の奴隷であると認識させたのです。
律法に目を向けるあまり、私たちも自分のことを取るに足りない罪人として認識してしまいます。その結果、行いによって自分を清くすれば、神に認められるかもしれない、命をつなぐパンをいただけるかもしれない、という思いに駆られてしまうことがあるかもしれません。
しかし、彼が遺産を求めてきたときも、彼が放蕩に耽っていたときも、彼が破産して豚小屋にいたときでさえ、父親の目からは大切な息子に見えていたのでした。どんなに彼自身が「息子と呼ばれる資格はない」と思っていたとしても、です。

走り寄って息子を抱きしめた父
彼が自分を取るに足りない存在だと思い込んでいた理由は二つです。
一つは、律法の存在です。父の目からどのように見られているのか、その事実に気づかない限り、律法の下にいることによって、私たちは罪の奴隷であると認識してしまいます。
二つ目は、私たちを取るに足りない罪人だと見なす存在のためです。ルカによる福音書15章15節には、「それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた」とあります。
汚れた動物の世話をする仕事は、当時の社会では忌避されていました。自分には汚れた動物の世話をするような価値しかないと彼に思わせた存在とは、サタンを象徴しています。サタンは律法を悪用し、私たちを日々攻撃します。私たちが天の父からどのように見られているのかを忘れさせ、神の息子や娘としての資格がない、罪の奴隷だと思わせているのです。
私たちが教会で「今日も祝福された!」と思っても、また1週間の歩みの中で、「自分はなんて価値がない罪人なんだ」と思わされてしまうのです。律法の要求する「死」を恐れ、私たちは取るに足りない罪人なのだというサタンの嘘に耳を傾けるようになってしまうのです。
息子が遠くにいるのを見つけた父は、走り寄って彼を抱きしめました。父が手にしていたのは、彼を打ち殺すための石ではなく、最上の着物と、息子であることを示す指輪、雇い人ではないしるしである履物でした。そしてこのように言います。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(同24節)と。

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです
天の父は私たちを造り、価値あるものとしてくださいました。私たちの父が私たちをどのような存在として見てくださっているのか、その真理に目を向けましょう。
キリストは、本来であれば石打ちの刑である放蕩息子の身代わりとして、十字架に架けられました(申命記21章22節参照)。彼の打たれた傷と血によって、私たちは今、生かされているのです。
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」(ローマの信徒への手紙8章14~16節)。

*聖句は©️日本聖書協会

鈴木優人/すずきゆうと

横浜市出身。アメリカ人宣教師の母と、英語学校で導かれた父のもとに生まれ育つ。和歌山教会、奈良教会、堺東集会所牧師。昨年結婚し、現在は妻と2人暮らし。

アドベンチスト・ライフ2022年4月号