セブンスデー・アドベンチスト教会

山に向かって

山に向かって

わたしは山にむかって目をあげる。
わが助けは、どこから来るであろうか。
わが助けは、天と地を造られた主から来る。
主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。
あなたを守る者はまどろむことがない。
詩篇121篇1~3節

詩篇121篇を暗唱しておられる方も多いでしょう。山は、私たちの行く手を遮る困難の象徴です。乗り越えていかねばならないものです。
しかし、詩篇記者は山を見ているのではありません。すべてのものを造られた方を見つめています。山も、このお方によって造られました。困難も、このお方の支配に服します。この天地を造られた方が、私たちにご自身を啓示してくださったことへの喜びがここにあります。
特に創造の記念日である安息日には、この方と特別の仕方でお会いできる特権が与えられています。私たちは安息日のたびに、いま私の前にある困難も神のご支配のもとにあるのだという確信を持つことができます。そのとき、私たちは使徒パウロとともに、「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」(ローマ人への手紙8章37節)と言うことができます。
逆に、安息日に万物の創造主に立ち返らないと、私たちには困難の山しか見えなくなります。安息日は私たちが贖われていく過程で、決定的な役割を果たします。私たちの魂を回復させるのは、このお方との出会い以外の何者でもありません。
さらに、この詩篇が都もうでの歌であることに私たちは意味を見いだします。祭司が今から帰途につく巡礼者たちの旅の無事を祈る歌だという説も聞いたことがありますが、私はむしろ、今からエルサレムに向かう民が困難な旅路を前にして、その旅を導く天地の主なる神に目を向けていく詩だと考えています。巡礼者たちの視線は、山の背後にある神の都を見つめています。ですから、これはアドベンチストの詩なのです。
私たちはいま、目の前に起きている世界的な危機、さらに私たちの、個人的あるいは教会としての罪との戦いを、イエスやパウロが言及した「産みの苦しみ」とみなします。そしてこの困難ではなく、その先に待つ都と、そこにある玉座と、そこに座しておられるお方を見つめます。どんなに視力が悪くなっても、山を超えて新エルサレムとその王を見つめる者に、イエスの言われた言葉が成就するのです。
「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう」(マタイによる福音書17章20節)

*聖句は©️日本聖書協会

アドベンチスト・ライフ
2022年6月号
教団総理 稲田 豊