失敗を正直に伝えている聖書
私たちの教会の大切な活動のひとつに「三育教育」があります。小・中・高で三育教育を経験していない私が、少しの間、学校で教える機会をいただきました。この学校には子どもたちがいちばん長く使う教科書があります。「聖書」です。この教科書は私たちが、日々正しく生き、ゴールを目指すために必要なことが書かれています。といって、成功した人の模範が書かれているかというと、そうではありません。神に従う人のさまざまな失敗が書かれているのです。その意味で、聖書は失敗の教科書なのです。
皆さんはご自分の失敗を家族や友人、特に子どもたちに話しますか。それとも隠そうとしますか。ほとんどの人は、都合の悪いところを隠したいと思うでしょう。恥ずかしいから、都合が悪いからです。まして教科書に残して伝えようなんて考えません。実際、日本で歴史の教科書に失敗について伝えるか否かが問題となっています。しかし、聖書は失敗を正直に伝えているのです。でも、聖なる書に恥ずかしい失敗をたくさん書くなんて、と思いませんか。
失敗を正直に告白した聖書のリーダーたち
聖書の中の失敗の代表格、それはキリストの弟子ペトロでしょう。ペトロは使徒であり、初代教会のリーダーです。このペトロはお調子者で、失敗をいくつもしています。笑えるものもありますが、その中でいちばん大きな失敗は、キリストが捕まった時、自分が捕まりたくないために、「そんな人は知らない」と呪いの言葉を口にしながら、三度も言ってしまったことです(マタイによる福音書26章69~75節)。この失敗は、ペトロ以外誰も知らないことです。でも、聖書に書いてあるのです。おかしいと思いませんか。誰が言ったのでしょうか。ペトロ自身しかありえません。聖書が書かれた頃、彼はすでに教会のリーダーでした。彼は、恥ずかしいから書くなと命令することもできたはずです。でも、失敗が正直に残されているのです。
旧約聖書にはイスラエル民族のリーダーであったアブラハム、モーセ、そして王になったサウル、ダビデ、ソロモンなどの大きな失敗が残されています。リーダーだけでなく、一族としての失敗もたくさん書かれているのです。ここでも一言、誰かが「書くな」と言えば残されなかったはずですし、人々も自分たちやリーダーの恥ずかしいことを聖書に残したくなかったはずです。でも、失敗が正直に残されているのです。
弱さを通して神に近づく
このように、なぜ聖書は隠さずに失敗を残したのでしょうか。それは、この失敗こそが大切だからです。私たちはこの聖書の失敗物語を読むことで、人間の弱さに気づかされます。恥ずかしくて隠してしまう弱さを、誰もが持っていることを知ります。それだけではありません。誰もが大変な失敗を犯していますが、だからといって、その人生が決して「失敗の人生」でないこともわかるのです。
大切なのは、失敗したときにどうするか、です。失敗しても、その後正しい選択をしていけば、失敗は取り戻せます。取り戻すだけでなく、失敗したからこそ正しい道を見つけることができるのです。そしてそのとき、両手を広げて受け入れてくださる神、見守ってくださる神に気づくことができるのです。
そう考えれば、聖書はある意味、神が人間の失敗と向き合う記録とも言えます。神は愛をこめて、最初の人、アダムとエバを造りました。でも二人は、その愛に背いて禁じられたことをします。アダムの長男カインは弟のアベルを殺してしまい、ノアの時代には地上に悪がはびこり、その後も失敗はずっと続くのです。
人は失敗を繰り返し、神がそれを見守る。親がわが子を見て、自分の思うようにならないと嘆くことがありますが、神もそのような気持ちだったのかもしれません。しかし、神は何度も何度も失敗し続ける私たちを愛し、やり直すまで待ち続け、見守ってくださるのです。
失敗に向き合い、励ましてくださる神
預言者サムエルが、神から離れて失敗し続けた民に、最後に伝えた言葉があります。「サムエルは民に言った。『恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい』」(サムエル記上12章20節)。
サムエルを通して神が伝えたかったのは、失敗は終わりではない、ということです。失敗は立ち返り、方向転換するチャンスなのです。確かに失敗の経験はつらく苦いものです。恥ずかしくて隠したくなるでしょう。しかし、それがなければ気づけないことがあるのです。だからこの教科書は教えてくれるのです。私たちは失敗するが、そこから始めればよいのだ。そのとき神は、私たちを助けてくださるのだ、と。
ペトロがキリストを裏切るという大失敗に陥ったとき、ペトロを立ち上がらせたキリストの言葉があります。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカによる福音書22章32節)。私たちは失敗した者だからこそできる働きが与えられているのです。
私たちは失敗して大きくなってきました。最初から歩ける人、話せる人はいません。私たちは何度も失敗して、歩くこと、話すことができるようになったのです。私たちはこれからも失敗するでしょう。でも、恐れないでください。あきらめないでください。その先に私たちの歩むべき道があるからです。そして神は皆さんの中にある可能性を信じて、その失敗に一緒に向き合い、励ましてくださるのです。これからも、この失敗の教科書から学んでいきましょう。
*聖句は©️日本聖書協会
伊藤裕史/いとうひろし
山口県出身。大学時代に導かれ牧師に。現在東京中央教会、四ツ谷教会牧師。
アドベンチスト・ライフ2021年9月号