「ポストモダン」という言葉は「近代以後」と訳されます。
近代は「大きな物語」が信じられた時代でした。歴史にはゴールがあるとされましたが、これはもともと聖書からきた考えです。旧約聖書に貫かれたメシヤ(救い主)待望は、イエス・キリストの出現で部分的に実現し、新約聖書の再臨待望に受け継がれていきました。キリスト再臨が歴史のゴールとなったのです。
しかし、その後キリスト信仰が公的に受け入れられていく中で、再臨ではなく教会による神の国、神の支配の実現が図られることになりました。
人類救済の物語は、近世においても人類の進歩として世俗化されながらもなお信じられました。そして19世紀、マルクスとエンゲルスが無神論の立場から完全にこれを描き直しました。以来、世俗化した再臨としての社会革命が信じられてきました。
しかし20世紀半ばにおいて、この「大きな物語」は失われていきます。このポストモダンといわれる時代、構造主義などの現代思想は、「歴史」そのものを否定しました。もはや「大きな物語」がなくなったのです。そこには小さな差異(付加価値)しかありません。企業は、それを作り出そうとしのぎを削ります。今私たちの生活に大きな影響を及ぼすのは、聖書やマルクスではなく、GAFA(アップルやグーグルなどの巨大IT企業)です。多くの人にとってキリスト再臨や社会革命などは縁のないものとなり、iphoneの新型発売のほうが大きな関心事となりました。
宗教も大きな物語を語らなくなりました。わがアドベンチストも、ある記事で、「平均より10年長く健康に生きられることを強調して、再臨よりも長生きに強調点をシフトしている」と揶揄されたことがあります。悔しいですが、世間からはどんぐりのせいくらべに見えてしまうのかもしれません。
在来宗教、特にキリスト教が大きな物語を語らなくなったのに反し、聖書的終末論から逸脱した荒唐無稽なものにもかかわらず、なお大きな物語を語り続ける新興宗教が人を集めています。これは私たちの責任です。私たちが大きな物語を語らなくなったからです。あるいは語ることが少なくなってしまったからです。
私たちの物語は、人間が作ったものではないのです。神が罪に堕ちた人類をあくまで救おうとされる思いであり、意志なのです。私たちはその愛の物語を語ろうではありませんか。
イエス・キリストは来られます。人類の堕罪と神からの逃走の歴史に終止符を打ち、人類の救いを完成するために来られます。聖書の希望の終末論が復興されなくてはいけないのです。歴史を否定するポストモダンは幻想です。神の救いの物語は、今もゴールを目指し綴られているのです。
*聖句は©️日本聖書協会
アドベンチスト・ライフ
2022年10月号
教団総理 稲田 豊