和解の務め
もしあなたが、あと数時間しか生きられないとしたら、どのような言葉を聞きたいですか。菜食のことでしょうか、裁きのことでしょうか。特殊教理のことでしょうか。私なら、「希望が得られる言葉」を聞きたいと思います。
キリスト教では、異なる聖書の強調点が語られることによって各教派が生まれました。それが各教派の特徴となるわけですから、それはそれですばらしいものですが、まず伝えるべきことは何でしょうか。
神様はあなたのことを大切に思っておられ、あなたの身代わりとしてイエス様を十字架につけられました。イエス様があなたのために死に、復活されたゆえに、あなたも復活し、ご再臨のときにまた大切な人に会うことができるのです。この感謝、喜び、希望を人々に伝えるのです。
「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」(コリントの信徒への手紙二・5章18節)。
神と和解する
人が充実感をもって生きるためには、目標が必要ですし、その目標を達成することが必要ではないでしょうか。神様は私たちがむなしく時を過ごさないように、一つの人生の目標、務めを与えてくださいました。それは、「和解の務め」といわれるものです。池に落とされた石によって水面の波紋が広がっていくように、私たちのいる所を祝福の発信地として、「神様による和解」の輪が広がっていくことを神様は望んでおられます。そのための働きが、「和解の務め」です。
「和解の務め」を与えられている人は第一に、その人自身が神様と和解しておく必要があります。「伝えないと救われない(和解できない)」のではなく、理想は「救われた(和解できた)から伝える」のです。実際、伝えようとすると「伝わらない」現実にぶつかるでしょう。それでも伝えようとするとき、あきらめず、聖霊の神様の導きに頼り、祈るので、神様から知恵をいただけ、結果として私自身が救われるのです。
「和解」は神様の願いであり、「和解の業」は神様の働きです。決して私たちの「業」ではありません。私たちは神様の業に「同意(アーメンという)」するだけなのです。
和解は、イエス様が私たちの身代わりとなって十字架に架かってくださったことで、成就しています。そのイエス様の十字架は私のためだったと信じる人は、神様と「和解した」のです。私たちに働いてくださるイエス様の働きを信じましょう。イエス様の十字架は、「和解の献げ物」でした。
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマの信徒への手紙3章24節)。
私たちは、好むと好まざるとにかかわらず「神に敵対していた」と聖書は告げます(ローマの信徒への手紙8章7節)。神様は、敵であった私を愛してくださって、み子イエス様を私のために和解の献げ物としてくださったと聖書に記されています。
これは神様からの「約束(契約)」なのです。「約束(契約)」はただ信じることが大切ではないでしょうか。「信じた」とき、「約束は成就する」のです。旧約時代、儀式の中心は「和解と感謝の献げ物」をすることでした(出エジプト記20章24節他)。自分自身が神様と和解しておく必要があるのです。それは神様の願い、思いなのです。神様は「和解」を望んでおられるのです。
創世記3章の物語には、なぜ私たちがイエス様を信じないといけないか、私たちと神様との間を引き裂いた敵がいることが書かれています。敵がいるがゆえに、私と神様が和解することが必要なのです。
和解の務め
第二に、神様と和解した私たちには、「和解の務め」が与えられています。「(自分と同じように)あなたも神様と和解していただけますよ」と人々の説得に努めるのです。「何を伝えればよいかわからない」と言われる方がありますが、「神様と和解すること」を伝えればよいのです。和解のためには「献げ物」が必要であること、自分の力ではなく、神様がその「献げ物」を用意してくださっていること、私たちはただ、それを感謝して受け取ればよいということをお伝えするのです。それが「和解の務め」となります。
この務めを遂行するために、私たちの力は必要ありません。神様の力が必要なのです。聖霊の神様が働かれるとき、神様と和解する必要があること、和解のためにはイエス様の犠牲(十字架)が必要であることが、相手の心に示されます。
終末の備え
世の中は「訴訟(争い)」に満ちています。訴訟は和解とは反対の言葉です。イエス様による和解があることを人々にお伝えしませんか。「あなたがいてくれたことで、神様と、また人々と和解できたよ」と言ってもらえたら、すてきだと思いませんか。
「あなたも和解できます。私も和解したのですから、あなたも可能です」。これが終末の備えではないでしょうか。
罪は終わります。しかし、永遠の支配が始まります。終わりは始まりなのです。終わりと同時に、始まりの希望について語ることを忘れてはいけません。
永遠に残るものである「信仰」「希望」「愛」、その中でもっとも大いなるものは「愛」。人間の愛ではなく、神様の愛です。死を超える神様の愛、希望をお伝えしようではありませんか。
人生には目標設定が必要です。あなたには「和解の務め」があります。その務めを果たすには、まずあなた自身が神様と和解する必要があります。和解するためにはイエス様の身代わりの死が必要です。私たちが神様と和解できるのはイエス様のゆえです。その喜び、感謝を、今度は人々に伝える時です。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(ヨハネの手紙一・4章10節)。
*聖句は©️日本聖書協会
平田泰三/ひらたたいぞう
現在、鹿児島教会・隼人教会牧師。またインターンと共に宮崎・都城の信徒の皆様とも交流している。前任地の北海道から日本を縦断して南九州へ。日本は狭いようで広いと実感。聖書のヨハネによる福音書を愛読。教会の皆様、また妻と3人の娘の信仰に支えられて牧会中。
アドベンチスト・ライフ2023年11月号