「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない」(ローマ人への手紙15章1節、口語訳)。
私たちは強い者でしょうか。私たちは普段、自分を弱い者だと考えがちかもしれません。そうだとしたら、聖霊によってパウロがローマ人への手紙の中で記したこの言葉は、私たちに関係ないのでしょうか。特別な信仰のエリートだけに向けられた言葉なのでしょうか。
私には3人の子どもがいます。昨年はコロナ禍のなか、家族5人が3か国に分散していました。会うことができません。そこで、集まれる者だけで毎日時間を決め、ライントークで聖書を読み、祈ることにしました。15分ほどですが、これは大きな祝福となりました。上記の聖句を読んだ時、家族の短いディスカッションの中、聖霊は私たちをもう一つの聖句に導きました。
「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(コリント人への第二の手紙12章9、10節、口語訳)。
信仰者の強さとは、弱さにあらわれるキリストの力を知ることではないかと気づかされたのです。その強さは、しなやかな強さです。弱さの中で自己憐憫に陥ったり、開き直ったりしない強さです。それは、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と言うことができる強さです。強くない者たちの弱さを担うことのできる強さなのです。
強くない者たちは、一見強そうに見えるかもしれません。しかし、彼らは自分自身にまだ頼っています。弱さの中にキリストの力があらわれることを知らないか、全く体験していないからです。ですから、自分の弱さを本当には受け入れられないのです。
キリストに頼る方法を知らないので、自分に頼らざるを得ません。自分に頼れば頼るほど、争いやねたみが起こる可能性は高まります。パウロはそのような人たちに、あなたがたはまだ肉の人だからだと語りかけます。同時に、キリストにある幼な子とも呼びかけます。確かにあなたがたはキリストに出会ったのだが、まだ生まれたての赤ちゃんなのだというのです。そこから成長するように呼びかけます。
強い者は自分が通った道なので、幼な子の苦闘を知っています。だから祈ることができます。受け入れることができます。そうやってキリストの教会は成熟していくのです。そして、新しい赤ちゃんをさらに産み出して成長させていくのです。
*聖句は©️日本聖書協会
アドベンチスト・ライフ
2021年5月号
教団総理 稲田 豊