中途半端な信仰
教会でよく聞く証の1つに、何か物を失くしてしまったとき、祈ったら見つかったというものがあります。多くの方々から何度となくそのような証を聞いてきました。しかし、12年前に失くしてしまったわたしの財布は、まだ見つかっていません。もちろん祈りましたし、探しました。警察に遺失物届も出し、できる限りのことはやりました。しかし、見つかりませんでした。大金が入っていなかったこと、カードの利用停止や再発行の手続きを終えたことなどもあり、数日後には祈ることをやめてしまいました。
そんな未解決の問題を残したまま、先日、別の財布を失くしてしまいました。やはり祈りましたが、過去の経験も影響していたせいか、「また見つからないかもしれないな」と思っていました。「どうせ祈ったって見つからない」と決めつけて祈らなかったわけではありません。しかし、「祈ればそのとおりになる」という確信をもって祈ったわけでもありませんでした。
中途半端と言われればそのとおりですが、これがリアルなわたしの信仰です。ちょっとしたことではありますが、このような自分の信仰が浮き彫りになるとき、果たして自分は本当に神を信じているのだろうかと心配になります。さらに混乱してしまうことに、そんな中途半端な信仰で祈ったにもかかわらず、先日失くした財布は見つかったのです。
信仰のない時代
わたしの信仰の状態は、イエスにとっては大きな関心事です。イエスは、わたしに信仰がないこと、あるいは信仰が足りないことを嘆き、悲しみ、そして忍耐してくださっています。
イエスが、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて山に登り、特別な経験をして下山されると、麓に残っていた弟子たちは、失望と屈辱の中にいました。彼らはイエスが不在の間に、汚れた霊にとりつかれた子をいやすことができなかったのです。何とも言えない不穏な空気を感じ取られたイエスのもとに、その子の父親がやって来て、事の一部始終を報告しました。
その様子を聞いたイエスは、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」(マタイによる福音書17章17節)と嘆きながらも、「その子をわたしのところに連れて来なさい」(マルコによる福音書9章19節)と父親に言われました。イエスの前に連れて来られたその子は、汚れた霊によってひきつけを起こして倒れ、転び回って泡を吹いてしまいました。そんなわが子を前にして、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(マルコによる福音書9章22節)と父親がイエスにお願いしました。
父親は、噂のイエスであれば、自分の子をいやしてくださるという確信をもって、この場を訪れていたことでしょう。イエスは不在でしたが、汚れた霊に対する権能を授けられた(マルコによる福音書6章7節)弟子たちがいました。しかし、その弟子たちにはどうすることもできませんでした。そのような経験をしていた父親は、すでに揺るぎない信仰を失っていたため、イエスに対しても「おできになるなら」とお願いしたのです。期待が裏切られて失望する経験は、もうしたくなかったのかもしれません。
信仰のないわたしをお助けください
イエスは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(マルコによる福音書9章23節)と、父親に自分の信仰のあり方を迫りました。すると、父親はとっさにおかしなことを叫びます。しかし、本心による正直な叫びでした。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコによる福音書9章24節)。
何とか息子を助けてほしいという思いと、またダメかもしれないという思いが心の内に共存していたからなのか、この叫びには矛盾があります。自分には信仰はないものの、信じると言っています。そして、そんな自分自身の矛盾を自覚していたからなのか、そんなわたしを助けてくださいとイエスにすがりついたのです。
イエスは、「言っていることが支離滅裂でおかしいじゃないか!」と指摘したり、「信仰がないのにどうやって信じるのか」といった意地悪な質問をしたりなさいませんでした。父親の叫びに応えるかのように、汚れた霊を叱り、少年から追い出してくださったのです。父親には信仰がなく、その心はよこしまな状態だったかもしれません。しかしイエスは、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」という父親の叫びに応え、息子をいやされました。
信仰のない父親は、一体何を信じたのでしょうか。「イエスは信仰のない自分であっても、助けを求めれば応えてくださる方であること」を信じました。だからこそ、彼はイエスの前から立ち去りませんでした。イエスは、立派な信仰の持ち主だけを助けるのではなく、信仰のない自分のような者にもしっかりと向き合ってくださる方であると信じ、すがったのです。
「キリストを通して、神は、あらゆる罪の傾向を征服し、あらゆる誘惑に抵抗する手段をお与えになった。しかし、自分は信仰が足りないと思って、キリストから離れたままでいる者が多い。こういう魂は、無力と無価値のままに、憐れみ深い救い主のいつくしみにすがりなさい。自分を見ないで、キリストを見なさい」(『各時代の希望』中巻、202ページ)。
イエスは、わたしたちの信仰が足りないことをお喜びにはなりませんが、そんなわたしたちに関心を失っているわけではありません。むしろ、自分の信仰が足りないと自覚したときにこそ、助けを求めてほしいと待っていてくださいます。そんなキリストを見上げつつ、近づき、すがり続けたいものです。
※聖句は口語訳を使用
青木泰樹/あおきやすき
1974年生まれ。牧師としての人生がそれまでの人生よりも長くなった牧会生活26年目を迎える。西日本教区と東日本教区において9つの教会を歴任した後、教団伝道局を経て、現在アドラ日本支部長。妻と1女3男の6人家族。
アドベンチスト・ライフ2023年5月号