み言葉には力があります。イエスの弟子たちも、主の言葉の力強さを経験しました。
彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった(ヨハネによる福音書21章3節)。
夜が明けた頃のことでした。イエスの弟子たちは、ガリラヤ湖で一晩中、漁をしましたが、何もとることができませんでした。弟子たちは、「がんばって働いたけれども、何もとれなかった。もう漁は終わりにしよう。くたびれた」と思いながら、舟を岸に進めていたことでしょう。また、イエスが十字架につかれたあとのことです。「イエス様が一緒におられた時はあんなに魚がたくさんとれたのに。今は何もとれなくなってしまった。この先自分たちはどうなってしまうのだろう」と不安を抱いていたかもしれません。
この「くたびれた」という気持ちや、「この先どうなるのだろう」という将来を悲観する思いは、私たちも抱くことがあるのではないでしょうか。信仰がないわけではないのです。イエスは弟子たちにガリラヤで会う約束をされました。弟子たちは、その約束を信じてガリラヤに向かいました。同じように私たちもイエスにお会いできるという約束を信じています。また、働いていないわけではないのです。弟子たちは、一晩中、漁をしました。同じように私たちも伝道に努めます。しかし、その成果が見えずに、うなだれてしまうことがあるのです。
イエスが「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた(ヨハネによる福音書21章5節)。
舟が岸に近づくと、誰かが岸に立っていて尋ねました。「子たちよ、何か食べ物があるのか」。魚は一匹も取れていません。弟子たちは「ありません」と答えました。するとその人は、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言いました。
弟子たちが言われた通りにやってみると、網を引き上げることができないほどたくさんの魚がとれました。この時ペトロは、思い出した出来事があったに違いありません。ペトロ自身がイエスの弟子になった時の出来事です。それと同じような出来事が、今、起きるのです。
ペトロよりも、ヨハネのほうが先に気づいたようです。ヨハネは、「主だ」と叫びました。十字架につかれ、墓に葬られた主。その主が蘇られて、再び私たちのところに来てくださった。私たちを助けに来てくださった。聞き覚えのある優しい声。私たちを召してくださった時もそうだった。間違いない。あれは主だ、とヨハネは、驚き、喜びながら、岸に立っているお方は主イエス・キリストだとペトロに伝えるのです。
主は御言葉を遣わして彼らを癒し(詩編107編20節)。
漁の疲れも、将来の不安もどこかに吹き飛んでしまったようです。ペトロは、衝動的に湖に飛び込みました。他の弟子たちも、大喜びで、イエスのもとに向かいました。
ここで弟子たちは新たな力を得ているようです。なぜか。それは、イエスが「子たちよ、何か食べる物があるか」と語りかけてくださったからです。イエスは弟子たちの目には見えませんでしたが、弟子たちをずっと見守っておられました。そして、弟子たちを力づけるために、み言葉を与えられました。
同じようにイエスは、たとえ弱く欠陥があってもキリストの教会にご自身の最大の関心を寄せられています。そして、教会にみ言葉を与えてくださいます。教会は、神の言葉が語られるところです。そして、み言葉によって私たちは、神を知り、新たな力を得ることができるのです。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た(ヨハネによる福音書1章14節)。
旧約聖書において、「言葉」と訳されているヘブライ語の一つが、「ダーバール」です。この語は、単なる言葉を意味する以上に、もっと広い意味を持っています。それは、ダーバールが「行為」「事柄」「出来事」「命令」など40種類以上の語に訳されていることからもわかります。したがって、「神の言葉」という場合の「言葉」は、単なる言葉ではなく、神の行為を意味しています。ダーバールは、事柄や出来事を生じさせたり、引き起こしたりするとも考えられていました。
このような旧約聖書の「言葉」を背景にして、ヨハネによる福音書の冒頭の聖句があります。そこでは、主イエス・キリストが「言」で言いあらわされ、イエスによって神の栄光があらわされたと記されています。さらに神の栄光がイエスだけでなく、ペトロを通してあらわされることを、イエスは予告されています。
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである(ヨハネによる福音書21章19節)。
イエスはここで、イエスの愛を知ったペトロが、神に従い続けることができる。神の栄光を現すことができると保証しておられるようです。イエスを裏切り、主に従うことに挫折したペトロです。そんなペトロがなぜ立ち直り、神の栄光を現すことができるのか。それは、神の言葉そのものであるイエスが人間となられ、人間のためにその命をささげられたからです。そしてそれは、ペトロだけの話ではありません。私たちも、み言葉によって神の栄光をあらわすことはできます。み言葉には人を生かし、神の救いの計画を成し遂げる力があるのです。
*聖句は©️日本聖書協会
平賀和弘/ひらがかずひろ
1974年、長野県生まれ。3児の父。安息日学校部、信徒伝道部長。亀甲山、横須賀、相模原、川崎、座間教会牧師。横浜三育小学校チャプレン。水泳や低山ハイク、間取り図を見るのが好き。
アドベンチスト・ライフ2024年1月号