年の最後のミッションに相応しいかどうかわかりませんが、ここのところ頭にこびりついて離れない言葉を表題にいたしました。どこかでこの言葉を聞いて覚えているのか、私のオリジナルなのかもわかりません。
コンスタンティヌスは、もはやキリスト教を迫害によって抑えるのは無理なことを悟ります。古きローマの多神教では、もはや社会を維持できないことも理解します。そこでキリスト教を取り込んで新たなローマ帝国の精神的基盤にしようとしました。それは芸術的な政治、宗教政策といえるものでした。
そこで邪魔になったのは、再臨と復活の待望でした。初代教会は、この世がキリストの再臨によってまもなく終わり、死に別れた愛する者たちを神が復活させてくださることを待ち望んでいました。この信仰が帝国と制度化された教会には脅威となったのです。
そこで再臨による神の国の出現が、帝国と教会によってこの世に実現する神の国に置き換えられます。復活が霊魂不滅に置き換えられます。天国と煉獄が何段階もある重層的な来世観により、教会は人々の魂を現世のみならず来世においても支配すると信じられるようになります。救済は魂のランクアップとなり、制度化された教会の専売となっていきます。コンスタンティヌスの開始した仕事は代々のローマ教皇に引き継がれ、中世ヨーロッパ・キリスト教共同体として完成します。再臨と復活の排除から逸脱が始まったとすれば、その復興が宗教改革の当然の帰結となります。アドベンチストはプロテスタントの最終形態といえましょう。
今年5月、オンライン全国牧師会で行われた講義で、講師のオーストラリア人の先生が、コンスタンティヌス以来の制度としての教会観が、今もなおいかに現在のアドベンチスト教会すら縛っているのかについて話しました。何も持たない自由な教会が、建物と教区に縛りつけられた不自由な制度的教会となりました。聖霊のみに導かれた教会が、伝統と人間に支配される教会になってしまいました。そして、そこから今も逃れられていないのです。教理の変化と教会制度の変化は連動します。再臨を排除したら、そこに向けて伝道のみに邁進した教会から、死後の魂を含めて人々を〝管理する〟教会に変わっていくのは必然なのです。これらのことを思いめぐらしていると、第二天使の使命が再び強く私の心に迫ってきました。
「また、ほかの第二の御使が、続いてきて言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者』」(ヨハネの黙示録14章8節、口語訳)。
聖霊によって、この呪いから解き放たれて自由になりたいのです。
*聖句は©️日本聖書協会
アドベンチスト・ライフ
2022年12月号
教団総理 稲田 豊