50歳を過ぎて数年後のことでした。ふと自分の年齢が気になりました。
実はそれまで自分の年齢をさほど気にすることはなかったのですが、その時こう思ったのです。
(心の声)「あれ、50歳を過ぎてる。ということは、もしかしてこれからの人生は今まで生きてきた時間よりも短いんだ」
以来、年齢を意識するようになってしまいました。
さて、教会でこんな声を聞きました。
「先生、私はもうずいぶん歳をとってしまったので、そろそろ教会役員を引退したいと思います」
そんなとき、私は旧約聖書に登場する1人の人物を紹介することにしています。
その名は「カレブ」。ヘブライ語で「犬」という意味ですが、まさに神に忠実で勇敢な牧羊犬のような存在であったと思います。
「御覧ください。主がモーセにこの約束をなさって以来四十五年、イスラエルがなお荒れ野を旅した間、主は約束どおりわたしを生き永らえさせてくださいました。今日わたしは八十五歳ですが、今なお健やかです。モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく、戦争でも、日常の務めでもする力があります」(©︎日本聖書協会 ヨシュア記14章10、11節)。
勇気の時代
カレブは若い頃から神に全的信頼を寄せた霊的で勇気ある人でした。彼の名前が最初に出てくるのは民数記13章からです。モーセが神から示された約束の地カナンに12人の斥候を送ったとき、彼はその中にいました。
カナンは素晴らしい場所でしたが、屈強で闘いに秀でた民族が支配していました。10人は恐れて撤退を強く進言しましたが、ヨシュアとカレブだけは神を信じて進軍することを勧めたのです。特にカレブは断然占領すべきだと主張します(©︎日本聖書協会 民数記13章30節)。
その結果、イスラエルの共同体全体から石で打ち殺されそうになりましたが、神は彼らを用いるために介入されました(©︎日本聖書協会 民数記14章10~31節)。そのときカレブは40歳でした。
カレブの熟年の信仰と勇気は、すでに若い頃から備えられたと言っても過言ではありません。神の御旨を第一とする者は、たとえ支持する者が少数であったとしても、神による確信に対して、反対に決して屈することなく勇気を持って行うのです。
また、神の恵みは従う者だけでなく、神に忠実であろうとする人々の愛する者たちにも及びます。幾度も神に反逆する民(叫び、泣きごとを言い、不平、不満、反逆、殺意を持った)を神は赦されるのです。しかし、報いとして煽動した10名の斥候は疫病によって死に、民は40年の荒野の道をたどることになりました。カレブは、そのような民と運命を共にしたのです。
彼は共同体と共に生き、彼らのために祈り、働き、その内側から彼らを支え導いていきました。まさに共同体の力となって奉仕したのです。
私たちはその模範に学ぶ必要があります。私たち一人ひとりは、教会を外から批判するのではなく、教会の内側から愛によって支え、教え、導きながら改革に力を注ぐべきなのではないでしょうか。
忍耐の時代
それから40年の歳月が過ぎ、イスラエルの民は不信仰の故に、あてのない荒野を40年間、旅をし続けることになります。イスラエルの民が死海の北端のヨルダン川を渡ってカナンの地に入ったときには、出エジプトにおいてエジプトの生活を知る第一世代は、このヨシュアとカレブの二人を除いてはすでに地上には存在しませんでした。モーセもアロンも荒野で倒れました。
この荒野の40年間は、カレブにとっては神の約束を信じる忍耐を学び経験する時代となりました。さらにカナンの地に入って、すぐに戦いに次ぐ戦いです。一息の間に5年間は過ぎ去りました。
冒険の時代
そして、カレブは85歳。彼は、なお健やかであると言い、なおも積極的な生き方を求めています(©︎日本聖書協会 ヨシュア記14章11節)。
若い頃からの信仰の積み重ね、神の約束に対して従い抜く勇気と忍耐と希望は、彼の85歳以降の生き方、信仰の強さをさらに堅固にしていきます。カレブは全面的に神を信頼し、民の楯として生きることを常としていました。彼は、約束の地を手に入れる戦いの許しをヨシュアに申し出ます。彼は85歳になって、品性は成熟し、肉体も壮健であったのです。
民の指導者であったヨシュアは、自ら進んで最も困難な土地を求めたカレブの言葉を聞いて、今もなお先住民(巨人アナクの子孫)がいたヘブロンの地を彼の手に委ねます。主は約束に従い、彼にこの地を与えたのでした。また、このヘブロンの地を治めることは、外敵からイスラエルを守る楯となることでもありました。カレブの残りの人生は、まさに冒険に満ちた日々であったのではないでしょうか。
神は私たちが生きている限り、いかなるときも私たちをお用いになられます。しかし、無防備というわけではありません。必要なすべてのものは、たとえいくら歳を重ねようと、身体的に不安があったとしても、余りあるほどに与えられるのです(©︎日本聖書協会 マタイによる福音書6章33節、コリントの信徒への手紙二・12章9節、ペトロの手紙一・5章10節)。
神は惜しみなく愛を注ぎ、惜しみなく必要を満たしてくださっています。その思いを反映するのはキリスト者である私たち一人ひとりであるのです。
信仰生活、教会生活には引退はありません。キリスト者は神が眠りをお許しになるまで愛と喜びをもって、信仰によって神の言葉を届けながら生きていくのでしょう。
久保司/くぼつかさ
高知生まれ。32年間PFCに携わる。三育幼稚園の園長、副園長、チャプレン等を15年。10の教会、集会所を渡り歩いた後、現在、小金井教会、多摩永山教会、前橋集会所、大胡集会所を兼任、東京西地区長。
アドベンチスト・ライフ2019年12月号