セブンスデー・アドベンチスト教会

キリストのために苦しむ

キリストのために苦しむ

現代のキリスト教会は、イエス・キリストのために苦しむことを語ることはほとんどありません。セブンスデー・アドベンチスト教会においても同様です。しかしパウロは、「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」(ピリピ人への手紙 1章29節、 口語訳)と端的に述べています。

パウロがこれを書いたとき、受けていた苦しみとは何だったのでしょうか。1章12節から19節を読むと、まず投獄という外部要因の苦しみがあったことがわかります。さらにパウロへの妬みや闘争心から起こる党派抗争という教会の内部要因による苦しみがあったこともわかります。

私が驚きを禁じ得ないのは、外からは迫害、中では足の引っ張り合いという八方塞がりのように見える状況の中で、なおパウロは、「さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい」(12節)と語り得たということです。

パウロはまた、「それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。 わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである」(コリント人への第二の手紙1章5、6節、口語訳)と語っています。

パウロにとってキリストの体である教会は、霊的な現実でありました。目に見える現実を超えた目に見えない真理でした。ですから教会は、人間の努力によって形成されたものではありません。イエスの招きによって成立している目に見えない霊的な共同体です。そこには深い連帯が存在しているのです。

この連帯の中でパウロは苦闘しました。そして、その苦闘がイエスに対する奉仕であり、霊的共同体としての兄弟姉妹の交わりに慰めと救いをもたらすものであることを疑うことはありませんでした。彼はひとり獄中にあったとしても、決して孤独ではありませんでした。

苦しみを避けることで、現在のキリストの弟子たちは、逆にこの霊的な連帯を見失い、孤独に陥っているのではないでしょうか。私たちはイエスの再臨に向けた産みの苦しみを担っています。アドベンチストとして、イエスとその体である教会のために苦しむことを再評価すべきではないでしょうか。キリストの苦しみにあずかるとき、その慰めと救いも豊かに溢れるのです。

*聖句は©️日本聖書協会

アドベンチスト・ライフ
2021年10月号
教団総理 稲田 豊