今回のタイトルは、新約聖書のコリント人への第一の手紙15章31節からとりました。「なんのために、わたしたちはいつも危険を冒しているのか」(30節)という言葉に続いていますから、ここではたびたび死の危険にさらされるような使徒としての厳しい歩みを語っているようです。
しかし私たちは、この「わたしは日々死んでいる」という聖書の言葉を読むときに、「パウロ先生、大変だなぁ。自分は使徒でなくてよかったなぁ」と言っていればいいのでしょうか。それで、この聖書の言葉を理解したことになるのでしょうか。私には多少文脈からはずれているようでも、この箇所で主イエスは私たちに現在進行形で、「おまえは日々死んでいるか」と問うているように思うのです。
主イエスはマタイによる福音書6章34節では、「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」といわれています。「苦労」と訳されているこの言葉には、ネガティブな意味があるそうです。それは起こってほしくないことであり、問題であり、トラブルなのです。
しかし、私たちの人生にそれは起こってきます。私たちはそれを、父なる神が私に与えてくださった十字架として負っていきます。それは1日ごとの体験です。
明日が必ず来ると思うのは私たちの思い上がりです。明日が来る保証はありません。明日は神の手の中にあって、私たちの手にあるのは今日1日だけです。ですから、私たちキリスト者は夜眠るとき、明日の朝目覚めることを期待しつつも、それが保証されていると思うべきではありません。夜眠るたびごとに、私たちはその魂を正しく主イエスに委ねるべきであります。そのように日々きちんと死ぬ者は、朝きちんとその1日分の労苦を受け入れることができるのです。
それができないとき、1日の労苦を正しく神の手から受け取っていないときに、私たちは明日を思い煩いはじめるのではないでしょうか。そして、必ず来るとは限らない明日に夢をつなぎます。現実の今日の労苦を受け入れられないなら、明日を夢想せざるをえない。そうやって思い煩いも背負い込んでしまうことになります。
このように考えてみますと、日々死んでいるというのは、実に幸いなキリスト者の生き方であることがわかってきます。主イエスに自らの生死すらも委ねて眠りにつくのは、キリスト者の特権ではないでしょうか。そうやっていつの日か私たちは、喜びをもって私自身の地上の歩みの終焉か、歴史の終焉であるキリストの再臨のどちらかを迎えることになるのです。
*聖句は©️日本聖書協会
アドベンチスト・ライフ
2022年11月号
教団総理 稲田 豊