「よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」(マタイによる福音書24章2節)。
エルサレム滅亡の預言がユダヤ国家にとっての終末預言だったように、新型コロナウイスルに翻弄されている私たちも、「既存の見える教会に頼る時が終わった」と言われているように感じています。
イエス様は再臨の前兆として、「自分がキリストだ」と言って「多くの人を惑わす」(24章5節)偽キリストの宗教的な力と、「敵対」する国々の力(24章7節)を挙げられました。
次にサタンは、宗教と国の力を一つにして神の民に戦いを挑むために、「大地震」「疫病」「ききん」(ルカによる福音書21章11節)、という自然災害を起こします。
そして、自然災害が起こるのは神の民が原因だとサタンが吹聴し、「そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう」(マタイによる福音書24章9節)となるのです。
自然災害が神の民のせいにされる事例は、旧約時代に雨が3年半降らなかった時、エリヤが「イスラエルを悩ます者」(列王紀上18章17節)と呼ばれ、自然災害が神の民のせいにされたことと繋がっています。
わたしの名のゆえに
残りの民は「わたしの名のゆえに」(マタイによる福音書24章9節)迫害を受けます。「わたしの名」とは、「小羊の名」を額に書かれている「十四万四千の人々」(黙示録14章1節)と繋がっています。額つながりで、黙示録7章では、「十四万四千人」の額に「生ける神の印」(黙示録7章2節)を押されるとありますから、残りの民は「わたしの名」という神の「印」を額に受けるゆえに迫害される、ということです。
額とは品性の形成される前頭葉のある場所ですから、額に神の名が書かれるとは、14万4千人が神の愛の品性に変えられ、キリストの愛で満ち溢れているゆえに迫害を受けるということです。
黙示録7章2節の「生ける神の印」の「生ける神」とは、「天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神」(使徒行伝14章15節)とあるように天地創造の神を表していますから、世の終わりに残りの民は、「天地創造の神の印を額に押されているゆえに憎まれる」と言えます。
神の「印」は「しるし」と同義語であり(ローマ人への手紙4章11節)、「しるし」は「安息日」である(出エジプト記31章13節)とアドベンチストは知っています。
「わたしの名」(マタイ24章9節)=「(額の)小羊の名・父の名」(黙示録14章1節)=「(額の)生ける神の印」(黙示録7章2節)→「天地創造の神の印」(使徒行伝14章15節)=「天地創造の神のしるし」(ローマ4章11節)→「天地創造の神の第七日安息日」(出エジプト記31章13節)と繋がります。
キリストの愛に根ざす
しかし、第七日安息日礼拝者全員が最後まで耐え忍ぶとは書かれていません。迫害が来た時、「多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合う」(マタイによる福音書24章10節)とあるからです。
なぜつまずいてしまうのか。それは、「石地に落ちた種」の譬えからわかります。
「その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう」(13章21節)。「つまずき」の理由は、根がないからなのです。
石地に落ちた種は、「土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしま」(13章5、6節)うのです。
日光が成長に不可欠であるように、「御言のために来る困難や迫害」も不可欠だと言われています。そして日光という迫害が来た時に、根の有無が明らかにされるのです。
根とは、「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活すること」(エペソ人への手紙3章17節)です。
根とは、土の中の暗闇の中にあり、自分と神様だけの霊的な根の部分を表しています。神様と自分だけの空間、時間、経験です。神様と過ごす時とは、キリストの愛に根を張る時です。私たちの見えない霊的な根は、キリストの愛にどれくらい広く深く根ざしているでしょうか。
朝夕の静かな時間にキリストのラブレターである聖書を読み祈る時、私たちは揺るがぬ神の愛に根を張って、つまずくことのない者とされるのです。安息日の真理も必要不可欠ですが、「愛がなければ、いっさいは無益である」(コリント人への第一の手紙13章3節)との御言葉が身にしみます。
神様の思いに耳を傾けて
私の父方の祖母は、第二次世界大戦の時に疎開先の鹿児島で空襲にあい、父を含む4人の子供を引き連れて逃げ惑いました。途中で街中の土壕に入るように手招きしてくれた男性がいたのですが、祖母は4人を連れて走り続け、鉄道の線路の溝に隠れて助かりました。空襲がやみ、帰宅途中に見ると、あの街中の土豪は、周りの建物が焼けた熱によって大きなかまどのように熱せられていました。もしも祖母が土壕に入ることを選んでいたら、私の存在もなかったと聞いています。
着の身着のまま逃げ惑ったその時に、祖母が肩身離さず持っていたのが聖書でした。空襲の時に神様が祖母を安全な所まで導いてくださったおかげで、今の私があるのです。
私たちの信仰は、私たちで始めた私たちだけの信仰ではなく、私たちで終わる信仰でもありません。私たちが受け継いだ真理には、それを託した信仰の先駆者の思いが詰まっています。その信仰を引き継いだ私たちが今日も命を与えられたならば、今日も神様が、私たちを用いた救いの計画を持って待っておられるはずです。
その神様の思いに耳を傾けて、キリストの愛に根ざした信仰をいただくために、朝夕の神様との時間を大切にしたいと思います。
*聖句は「口語訳」聖書を使用。©️日本聖書協会
松枝重則/まつえだしげのり
豊橋教会、刈谷教会、瀬戸集会所、四日市聖書研究会牧師
1974年、東京生まれ(東京衛生アドベンチスト病院)の46歳。三育学院カレッジ神学科を卒業し、今春インターンを経て、現職。家族は妻と娘(5)。
アドベンチスト・ライフ2020年9月号