よい羊飼い
ヨハネによる福音書10章11節【(c)日本聖書協会】に次のようなみ言葉があります。
「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」
ある注解書に次のような解釈がありました。「この聖句を日本語にもっと正確に訳すなら『わたしがよい羊飼いである』の方がよい」
違いがわかりますでしょうか。「わたしがよい羊飼いである」─「が」と「は」の違いです。わずか一字の違いですが、この一字の違いは日本語では大きいのです。
「は」と「が」の一字の違いはニュアンスの違いをもたらします。ニュアンスとは受ける印象のことを言います。たとえば、デパートに行って、子どもが迷子になったとします。そのとき、それは「私の子どもだ」と名乗り出るときに用いるのが「わたしがその子の親だ」という用法です。このケースでは「わたしはその子の親だ」とは言いません。同じように、イエス様はここで、「わたしがよい羊飼いである」と名乗り出ておられるのです。わたしは「盗人」でもなく「雇い人」でもない。本物の「羊飼い」なのだ、とイエス様は、このみ言葉の中で自ら宣言しておられるのです。ちなみに、「よい羊飼い」と訳されている言葉ですが、原語的には「本物の羊飼い」とも訳せるそうです。「わたしが本物の羊飼いである」。イエス様は、はっきりと、そうおっしゃっているのです。
羊のために命を捨てる
次に、ヨハネによる福音書10章11節【(c)日本聖書協会】の下の句を見たいと思います。「よい羊飼は、羊のために命を捨てる」です。この言葉どおり、イエス様は私たち人間のためにその「命」を捨ててくださいました。カルバリーの十字架の上でイエス様はこう祈られました。「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか」【(c)日本聖書協会 詩篇22篇1節】。とても寂しい、悲しい祈りです。辛く、切なく、心が痛みを覚える祈りです。
それほど、イエス様は十字架の上で苦しまれ、孤独を感じておられたのです。このときのイエス様は、愛した人々から裏切られ、弟子たちからも見捨てられました。唯一、頼みの綱であった「父なる神」のみ顔も隠されて、イエス様は父なる神と全く断絶されてしまったのです。なぜなら、それが、人類が受けるべき刑罰だったからです。このとき、イエス様は罪深い人間が受けるはずの「永遠の死」を十字架の上で体験されたのです。その絶望的な苦しみと悲しみが、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」という悲鳴となって口をついたのです。
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」【(c)日本聖書協会 ヨハネによる福音書15章13節】と聖書は言います。イエス・キリストは文字通り、これを実行してくださいました。私たちを愛しておられるからです。「よい羊飼は、羊のために命を捨てる」。とても重い言葉だと思います。
わたしがよい羊飼いである
今から約60年前、朝鮮戦争末期の韓国での出来事です。アメリカからの白人宣教師のご夫妻が、焼け野原と化した韓国の地をジープで巡回していました。すると、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたのです。
宣教師夫妻はジープを止め、その「泣き声」に導かれるように、橋の下へと足を進ませました。そこで、夫妻は、「上半身裸になったお母さんが自分の上着で赤子を包み込み、抱きしめながら凍死しているという光景」を目の当たりにしたのでした。きっと、このお母さんは銃弾が飛び交う放火の中を、息子を抱きしめながら命がけで逃げてきたのです。しかし、この橋の下で、とうとう力尽きてしまったのです。自らの死期を悟った母親は息子を守るため、暖めるため、服を脱いで、その服で息子をくるんだのです。「神様、この子だけは助けてください!」という一心だったことでしょう。母親は祈りと共に、赤子を守りつつ、抱きしめながら息を引き取ったのです。心を動かされた宣教師夫妻は、この赤子を養子としたのでした。
それから数年が経ち、男の子はアメリカで、あの宣教師夫妻の息子として素直に成長していきました。ところが、この息子が中学生になったとたん反抗期に入ったのです。親に逆らい、夜中に抜け出して不良仲間と悪さをするなど、とうとう、困った状況になってしまいました。この子が不良化した原因は明らかでした。彼は自分の出生に関する真実を知らなかったのです。「自分は捨てられた子なのではないか?」「自分はこの世に存在する意味のない人間なのではないか?」。そんな思いが彼を悩ませていたのです。
困り果てた宣教師夫妻は、ある日、彼の出生に関する真実を話そうと決心しました。息子は夫妻の話に耳を傾けました。話が終わったとき、彼は慟哭し、その場に崩れ落ちました。家族は抱きしめ合いながら、何時間も泣き続けたのでした。
数か月後、3人は韓国にいました。息子が「母親の墓参りに行きたい」と願ったからです。母の墓の前に息子はひざまずき、嗚咽しながら祈りました。しばらくして、息子は涙で顔をグチャグチャにしたまま立ち上がり、自分の上着を脱ぎました。それから、その服で、母の墓をフワリと丁寧に包み込みました。涙あふれるその顔で、息子は、母の墓に向かってこう呼びかけました。「お母さん、ありがとう。ごめんね、ボクのために。寒かっただろうね。苦しかっただろうね。本当にありがとう」。息子は母の墓を抱きしめながら嗚咽したのでした。
このお話に登場するお母さんは、自分の体を盾にし、自分の命をかけて息子を救いました。イエス・キリストも同様です。イエス様はそのお体を盾にして、ご自分の命をかけて私たちを救ってくださいました。罪の刑罰から私たちを救ってくださいました。そして、死から私たちを救ってくださったのです。ですから、イエス・キリストは「わたしがよい羊飼いである」と主張することがおできになるのです。イエス様の愛と犠牲に対して、心からの感謝をお捧げしたいと思います。
長田和信/おさだかずのぶ
1960年生まれ。立教大学卒業後、3年間の会社員生活。その後、国内外を2年間放浪し、タイランドでアドベンチストの中国人女性と結婚。家族は3男1女と孫息子2人に長男の嫁。牧会歴28年。東日本教区の天沼教会副牧師を振り出しに、西日本教区と沖縄教区の諸教会を経て、現在は西日本教区の今治教会、松山及び弓削聖書研究会を担当。三育学院卒業、AIIAS修士課程修了。
アドベンチスト・ライフ2019年9月号