セブンスデー・アドベンチスト教会

すべてキリストにあって

すべてキリストにあって

12月、クリスマスの季節がまたやって来ました。イエス・キリストの降誕は、実際にはこの季節ではなかったろう、と言われています。しかし、大切なのはキリスト降臨の意味です。愛の神は罪に堕ちた人類の救いのために、その独り子を与えて下さったのです。神は、罪人を義と認め、聖め、完全へと導くためにキリストを私たちに与えて下さいました。

コロナ禍に苦しんだこの1年、最後の月に私たちに与えられたキリストをもう一度しっかりと捉えたいと思います。私たちの救いはキリストにしかありません。決して私たち人間の内にはないのです。

「しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです」(ガラテヤの信徒への手紙2章16節、聖書協会共同訳)。

罪人である私たちがどんなに神の律法を守ったとしても、その行いは罪に穢れたものに過ぎません。自らの行いによっては誰ひとり義とされないのです。ただキリストの真実、恵みだけが私たちの救いの根拠です。私たちはその恵みの救いを、信仰をもって受け取るだけです。そして、キリストだけが私たちを聖め、キリストに似た者へと変えて下さいます。

私たちアドベンチストの陥りやすい、律法遵守によって救いを得ようとする律法主義、その反動としての聖化なき義認へと誘う福音主義、どちらも間違いです。そこには私たちの唯一の贖罪者であるキリストが不在だからです。「信仰による義」とは、キリストの真実にすがる罪人のための究極の福音です。恵みと律法とのキリストにある調和です。

「終わりが近づいている。一つの主題、すなわち『われらの義なるキリスト』が他のすべての主題を呑み込んでしまうであろう」(『神の息子、娘たち』259ページ、英文)。

アドベンチストは、いつも十字架のキリストの前に生きます。そして、いつもキリストに信仰をもってつながるのです。完全な真実の木であるキリストに、この不完全な枝である罪人がつながる時、愛の実を結ばせていただくことができます。私たちが良い木であるのは、キリストとつながった時、キリストと一つとなった時だけです。

「信仰による義とは何か。それは、人間の栄光を塵にして、自分自身では何もできない人間に代わってなされる神の働きである」(『牧師への勧告』456ページ、英文)。

私たちはキリストが命じられた完全を祈り求めるべきです。しかし、その完全はキリストにある完全であって、キリストから離れての自力の完全ではありません。完全にならなければ救われないと、時に自らの知識を誇り、時に他に断罪的な眼差しを向ける、あのパリサイ派の完全主義でもありません。ただキリストにある完全を祈り求めるのです。

神は、私たちが彼にあって義とされ、聖められ、完全とされるようにとイエス・キリストを与えて下さいました。聖霊はキリストに全的に信頼するようにと働いておられます。マラナ・タ

アドベンチスト・ライフ
2020年12月号
教団総理 島田真澄