クリスマスのシーズンがもうすぐ訪れます。昨年はコロナ感染が再度拡大していたため、クリスマスの行事を中止した教会も多かったのではないでしょうか。いつもでしたら、街はクリスマスの装飾に彩られ、朗らかなクリスマスソングが流れていたことでしょう。教会でもクリスマスにちなんだ集会や交わりが持たれたはずですが、感染拡大のためにこれまでの活動ができなくなりました。しかし、この不安と恐れのある不穏な状況こそ、イエスがお生まれになった時の状況なのです。
イエスがお生まれになった不穏な時代
イエスがお生まれになった紀元前4年頃、地中海沿岸地域にはローマ帝国の武力による平和が訪れていました。エルサレムではローマ皇帝に承認されたエドム出身のヘロデ王によって神殿の大改修が行われており、経済的発展を遂げているように見えました。
その一方で、狡猾で猜疑心の強いヘロデは、自分の地位を脅かす者であるならば、妻子であろうが容赦なく殺害しました。その残忍さによって、ローマ初代皇帝アウグストゥスに、「ヘロデの息子に産まれるぐらいなら豚に産まれたほうがましだ」とまで言わしめたほどです。さらに、ヘロデは彼が亡くなる紀元前4年に、ローマ帝国に媚びてエルサレムの神殿の大門の上にローマ帝国の象徴である黄金の鷲の像を設置しました。このため、熱心なユダヤ教徒の怒りが爆発するという事件が起きました。
このほかにも反乱が何度も起こり、軍が鎮圧して見せしめに多くの人々を殺害するという事件が起きていました。たびたび疫病が流行し、多くの人々が命を落としました。憎しみと怒り、不安や恐れ、そして悲しみがこの時代の人々の心に満ちていました。イエスは、そのような時代に生きていた田舎娘の中に聖霊によって宿られたのです。
マリアに対するヨセフの優しさと配慮
しかし、そのことが事実であることを知っていたのはマリア本人だけです。婚約者ヨセフは、婚約期間中のマリアが自分の子ではない子を身ごもっていることを聞いて、大きなショックを受けたことでしょう。民数記5章に姦淫が疑われた場合の対処法が書いてありますので、これを公にして律法に従って不貞を働いたのかどうかを判断することもできたはずです。しかし、「ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した」(マタイによる福音書1章19節、口語訳、以下同)とあります。
彼は真偽を明らかにして自分の名誉を取り戻すことよりも、このことが公になって彼女がさらし者になることを望まず、マリアに配慮してひそかに離縁しようとしました。そしてその後、夢の中で主の使いが告げた聖霊によって宿ったというメッセージを信じて行動しました。彼の正しさは、ただ律法を忠実に行うだけの正しさではないように思えます。むしろ、彼の行動の根底には、マリアに対する優しさと配慮がありました。そして、ひとたび神の御心を知ったならば、それを信じて生きる忠実さがありました。このヨセフにも守られながら、イエスはベツレヘムでお生まれになりました。
危険に満ちたマリアの出産
しかし、誕生した場所にも危険が伴いました。客間に居場所がなかったため、マリアは家畜のいる場所で出産しました。細菌や感染症の知識もない時代に、このような場所で出産することは赤子のみならず、母胎にとっても危険なことです。そればかりか、東方から来た博士たちがヘロデ王のもとに行き、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか」(マタイによる福音書2章2節)と尋ねてしまいました。前述したとおり、ヘロデは自分の地位を脅かす者には容赦ない人物でした。案の定、「ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じ」(同3節)、その後ベツレヘムにいる2歳以下の男子を皆殺しにするよう命じました。ここにも不穏な状況がありました。
さらに、イエスを訪ねた東方の博士たちの贈り物には、死を連想させるものがありました。それは没薬です。彼らが贈った物は、イエスがどのようなお方かを暗示しています。黄金は王、乳香は神あるいは祭司、そして没薬は傷薬にも用いられましたが、埋葬の際に死者の体に塗られたので、死を連想させる贈り物です。イエスが埋葬される前に塗られたのも没薬でした(ヨハネによる福音書19章39節)。
神われらと共にいます
創造主であり、世界を治める王であり、罪を執りなす大祭司である方が、命を賭して人類を罪から救うために、罪のために不穏な状況になっている世界に飛び込んでくださった。それがクリスマスの出来事です。御子イエスはこれほどまでに謙遜になられて、私たちの境遇のみならず、罪責すらも背負われ、救いのために献身されました。父なる神は、私たちの救いのためにひとり子を罪の満ちた世界にお遣わしになりました。「神われらと共にいます」(マタイによる福音書1章23節)とあるように、このような神が私たちと共にいてくださるのです。
『各時代の希望』に、次のような言葉があります。「神は、われわれの幼子たちのために、人生の道を安全にするために、ご自分のひとり子を、もっと激しい戦いと、もっと恐ろしい危険にあわせるためにお与えになった。ここにこそ愛がある。ああ、もろもろの天よ、驚嘆せよ。ああ、地よ、おどろけ」(『希望への光』687ページ)。私たちはこの神の深い愛の対象なのです。
1年が終わろうとしている季節に、イエスを通して示された神の愛を瞑想しましょう。そして1年を振り返って私たちの罪を告白し、献身の思いを新たにして新年を迎えましょう。
*聖句は©️日本聖書協会
近藤光顕/こんどうこうけん
鹿児島県出身。アメリカ留学中に下宿先の石井光男牧師の影響で牧師になる決心をする。
現在、天沼教会牧師、三育学院大学看護学部東京校舎チャプレン、三育学院カレッジ特任教授。
アドベンチスト・ライフ2021年12月号