教区通信 2023年10月
さて私たちの旅は最終章を迎えているように思います。聖書の記録や記憶は直接私たちと関係しています。昔の出来事ではなく現代のわたしたちとの関係の中で読み解こうとする必要があります。しかも、自分が読みたいところだけでなく、目をそむけたくなるメッセージにも坦々と心を向ける必要があります。現代は私達がHPやYouTubeなどを閲覧する作業手順を解析し利用者ごとにパーソラナイズ、フィルタリングされた好みや趣旨にそう情報だけが提供される仕組みになっています。つまり自分の好みにだけ合う情報にだけ接している可能性が高いのです。そのような状態のことをフィルターバブルといい、まるで自分の好みの情報という泡にだけつつまれて過ごすことを指すのだそうです。私の目や耳は、教会はいずれ消えてなくなる無数の情報にフィルターバブルされないようにしたいものです。
何を見つめて(仰いで)いるかは重要です。何故なら主がそのように人に語られたからです。「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」へブル12:2。『見様見真似』とは真に似せると書くわけですが、わたしたちはウォッチしているものが自分の中心テーマになることを知っています。わたしたちはこの時代にいったい何をウォッチすべきでしょうか。「恥をいとわぬ喜び」のゆえにイエスが十字架を忍んでくださったとは、一人の魂が十字架に勝るものであったということなのでしょうか。
地上での最後の時にエルサレムを目指されるイエスの心について預言の霊はこのように語り伝えています。
「彼らは、エルサレムでご自分の上に落ちかかる運命について言われたイエスのみことばを思い出し、宗教界の指導者たちの恐ろしい敵意がわかっていたので、主を説得してそこへ行かれないようにしたかった。
イエスの心にとっては、愛する弟子たちの心配や失望や不信にさからって、道を進まれることは苦しいことであった。エルサレムで弟子たちを待ち受けている苦悩と絶望に向かって彼らを連れて行くことはつらいことであった。そこでサタンは、近くにいて、人の子イエスに誘惑をもって迫った。(略)なぜその収穫を、信仰が弱く、さとりがにぶく、行動の遅い弟子たちの手に残されるのか。なぜいま死に直面し、始めたばかりの働きを残されるのか。荒野でキリストに立ち向かった敵は、いま激しく巧妙な誘惑をもってイエスを攻撃した。もしイエスが一瞬でも屈服されたら、そしてもしご自分を救うためにほんの一点でも予定を変更されたら、サタンの力は勝利し、世は滅びたのである。
しかしイエスは、『エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ』た (ルカ9:51)。イエスの生涯のただ一つの法則は、天父のみこころであった。」
(希望への光927p各時代の希望53章『ガリラヤからの最後の旅』)
私たちは最後の時を生きているなら、キリストの最後の場面に目を向けることは大切です。人の目でみればエルサレムを目指すイエスの姿は、百害あって一利なし、不利益であり損失以外のなにものでもないように見受けられるのです。しかし、イエスは「その方へ顔を向けられた」とありそれは「天父の御心であった」というのです。わたしたちはそれぞれ心を持っています。しかし人の心ではなく天父の御心をただ一つの法則となさったイエスにより救われたことは感謝以外になにもありません。人の心を御心となされず人の真の救いのためにその道に顔を向けてくださり本当にありがとうございました。われわれ教会はいったいどの心を法則にするというのでしょうか。