安息日学校部

20240205安河内アキラ解説

2024年第2期「大争闘」

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第5課   困難に立ち向かう信仰 5月4日

 

暗唱聖句:わたしは仰せを心に納めています/あなたに対して過ちを犯すことのないように。詩編 119:11

                                           

今週の聖句:詩編 119:162、ヨハネ 16:13~15、Ⅱペトロ 1:20、21、エフェソ 2:8、9、 ローマ 3:23、24、ローマ 6:15~18

                                           

今週の研究:今週の研究では、宗教改革の事例を交えながら、聖書の教えが人生における真の目的と意味の基礎となることを探求します。永遠の真理を理解することで、私たちは大争闘における最後の危機に備えることができます。改革者たちの戦いはまだ終わっておらず、私たちは、彼らのやり残したことを引き継ぐよう求められています。私たちも、あらゆる困難に対処し、この世の何者も与えることのできない意味と目的を与えてくださる神を発見することができます。

                                           

日曜日:聖書は宗教改革者たちの信仰の基礎であり、彼らの教えの本質でした。彼らは、霊感を受けた「神の変わることのない生きた言葉」(Ⅰペト1:23)を与えられていると理解しており、一言一句を大切にしました。彼らが聖書を読み進め、その約束を信じるにつれ、信仰は強められ、勇気は新たにされました。「神のみ言葉の約束はみなそうである。それらの約束を通して、神はわたしたち一人ひとりに向かって語られ、また、直接み声を聞いているかのように語っておられる。これらの約束によって、キリストは恵みと力をわたしたちにお与えになる。それは、『諸国の民の病を治す』(ヨハネの黙示録22章2節)木の葉である。これを受け入れ、自分のものとするとき、品性の力となり、霊感が与えられ、生命を支持する者となる。こういういやしの力を持った者は他にない。これ以外にどんな者も、全身に活力を与え、勇気と信仰を授けることはできない」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング』新装版73、74ページ)。

                                           

火曜日:これらの聖句で非常に力強いのは、聖書の記者たちに霊感を与えたのと同じ聖霊が、聖書を読む私たちを導いてくださるという確信です。聖霊は聖なる真理の聖なる解釈者です。残念なことに、今日、クリスチャンを自称する人の多くは、聖書の超自然的な要素を軽視し、人間的な要素を誇張しています。サタンはもはや聖書を私たちから遠ざけることができないので、次善の策を講じます。聖書から超自然的な部分を取り除き、単なる優れた文学にするか、あるいはさらに悪いことに、大衆を支配するための抑圧的な宗教の道具とするのです。

宗教改革者たちは、聖霊が─司祭、高位聖職者、教皇ではなく─聖書の誤りなき解釈者であることをはっきり見抜いていました。スコットランドの宗教改革者ジョン・ノックスとスコットランド女王メアリとの興味深いやりとりが記録されています。「メアリ女王は言った。『おまえが聖書をこういう意味に解釈すれば、彼ら(ローマ・カトリックの教師たち)は別の解釈をする。わたしは、だれを信じたらよいのか、だれが裁判官になるのか』。改革者は答えた。『聖書によって明瞭に語られる神を信じればよいのです。そして、み言葉が教える以外のものは、これもあれも信じなくてよいのです。神の言葉は、それ自体明瞭です。もしどこかに不明瞭なところがあれば、ご自身に矛盾することのない聖霊が、それを他の場所において明らかに説き明かしてくださいます』」(『希望への光』1713ページ、『各時代の大争闘』第14章)

                                           

木曜日:宗教改革者たちは、より多くの真理を発見するために、御言葉を体系的に研究しました。彼らは、現状にも、ほとんど成長することのない厳格な宗教体験にも満足することなく、キリストをもっとよく知りたいと絶えず切望していたのです。聖書を信じる中世のクリスチャンの多くは、その献身に対して高い代償を払いました。彼らは拷問され、投獄され、追放され、処刑され、財産を没収され、家を焼かれ、土地を荒らされ、家族も迫害されました。彼らは家を追われたとき、「神が設計者であり建設者である」(ヘブ11:10)都を待ち望みました。彼らは拷問を受けるとき、拷問する者を祝福し、暗く湿った地下牢で苦しむとき、明るいあしたが訪れるという神の約束を信じました。

                                           

先日、ふとしたことから気づいたのですが、聖書には老いについて、隠さずに記録されています。ダビデは晩年、寒さのために震えが止まらずに、まわりに助けを求めています。エリは95歳で味方の敗北を聞いて倒れて死んだと書かれています。ところが老いに関する記録は、旧約聖書だけにしか書かれていません。新約聖書にはバプテスマのヨハネとヨハネの兄弟ヤコブが殉教したことくらいしか、死の場面について書かれていません。それは書かれている期間が短かったことなどもあるでしょうが、ほとんどの弟子たちが殉教しているからではないでしょうか。彼らは自分のいのちよりも神さまのことばに従うことを選び、その希望を信じて眠りにつきました。

宗教改革者は、聖霊によってみことばを通して光を与えられたのでした。彼らは光が与えられた時に、祈りそしてみことばに忠実になるために、どうしたらよいのか考えて、その光に従って生きることを決めたのでした。それはいのちをかけて時の宗教勢力と対決することになるかもしれませんでした。けれども彼らはみことばの光に従いました。

わたしたちも聖書を読んでいても、気づかないことばはたくさんあります。けれども、突然わたしの心にみことばが突き刺さってくることがあるのです。これは聖霊が、あなたに語りかけているのです。もし心に残ったみことばがあったら、立ち止まってみことばがあなたに何を語ろうとしているのか瞑想してください。

聖書の言葉は、場所においては解釈が必要な場合があります。そのまま読んでも意味がわからないことがあることは事実です。けれども神さまは必要なことは語りかけてくださっています。もし安息日を旧約から新約の時代にかわったのだから、日曜日に変更する必要があるとしたら、神さまは必ずもっとはっきりとお伝えになっていたはずです。安息日の意義は、わたしたちの存在そのものと関係があるはずです。与えられていない光に従う必要はありません。けれども与えられた光に忠実にありたいものです。