安息日学校部

20240204安河内アキラ解説

2024年第2期「大争闘」

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第4課   真理のために立つ 4月27日

 

暗唱聖句:そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 ヨハネ 3:14、15

                                           

今週の聖句:ダニエル 7:23~25、黙示録 12:6、14、ユダ 3、4、黙示録 2:10、 使徒言行録 5:28~32、詩編 19:8~12(口語訳 19:7~11)、Ⅰヨハネ 5:11~13

                                           

今週の研究:何世紀にもわたって、男も女もキリストへの信仰を放棄せずに、進んで殉教を経験してきました。彼らの犠牲は、私たちの勇気を再び燃え立たせ、キリストに献身した彼らの物語は、私たちの献身を新たにします。今週私たちは、ポリュカルポスを殺したのと同じ権力であるローマ、現状ではローマ教皇から命を狙われようと、主に忠実であろうとしたワルド派の人々や、後世のフスやヒエロニムスなどの改革者たちを突き動かした聖書の原則を見ていきます。

                                           

水曜日:宗教改革者たちはみな、神の言葉を「喜び」ました。彼らは神の御心を行うことを「喜び」、神の律法を「愛し」ました。宗教改革の最も重要な基礎的真理の一つは、聖書を学ぶことがもたらす喜びでした。聖書研究は骨の折れる仕事ではなく、律法主義的な訓練でもありませんでした。それは厳しい要求などではなく、喜びでした。

聖書を学ぶとき、彼らは聖霊の力によって変えられました。「ウィクリフの品性は、聖書が人を教え、改変する力を持っている証拠である。聖書が彼をこのような人物にしたのである。啓示された偉大な真理を把握しようとする努力は、すべての機能をはつらつとさせ、活気づける。……聖書の研究は、他のどんな研究よりも、あらゆる思想と感情と抱負とを高尚にする。また、確固とした目的と忍耐、勇気を与えるとともに、品性を洗練し、魂を清める。畏敬の念をもって聖書を熱心に研究するとき、学ぶ者の心は直接神の無限の心と接触することができ、どんな人間的哲学を修めても達することができないような高潔な原則を持つとともに、強く活発な知性を持った人々を世に提供することができる」(『希望への光』1633ページ、『各時代の大争闘』第5章)。

                                           

木曜日:恐ろしい迫害に直面した忠実なワルド派の人々を励ましたものは、何だったのでしょうか。フスとヒエロニムス、ティンダル、ラティマー、そして中世の殉教者たちに、炎や剣に立ち向かう勇気を与えたものは、何だったのでしょうか。それは、神の約束に対する信仰です。彼らは、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(ヨハ14:19)というキリストの約束を信じたのです。彼らは、キリストの強さが人生最大の試練を耐えるのに十分であると気づき、苦しみの中でキリストと交わることによって喜びさえ見いだしたのです。そして彼らの忠実さは、世界に対する力強い証となりました。

彼らは、過去の先にある未来に目を向け、キリストの復活によって死が敗北した敵であることを知りました。この勇気ある男女にとって、死の支配は打ち砕かれました。彼らは神の言葉の約束にしがみつき、勝利を得たのでした。

                                           

金曜日:「神は、これら選ばれた人々の心に大きな光を与え、ローマの誤りの多くをお示しになった。しかし彼らは、世に示すべき光を全部受けたのではなかった。これらご自分のしもべたちによって、神は人々をローマ教の暗黒から導き出しておられたのである。しかし、彼らは、さまざまの大きな障害に直面しなければならなかった。神は、彼らが耐えられるだけ、1歩ずつ、お導きになった。彼らはすべての光を一時に受ける用意がなかった。長い間暗黒の中にいたものが、真昼の太陽の輝きを受けるのと同じように、もしすべての光が一度に示されたならば彼らは目をそむけたに違いない。それゆえに神は、人々に受け入れられるだけの程度に従って、少しずつ光を指導者たちに示されたのである。世紀を追って、他の忠実な働き人たちが現れ、人々をなおいっそう、改革の道に導いた」(『希望への光』1637ページ、『各時代の大争闘』第6章)。

                                           

今週は善と悪との戦いの中で、キリストのためにいのちを捨てる殉教について学びます。キリスト教会の歴史は殉教の連続と言っても過言ではないでしょう。いつの時代も世界中のどこかで、神さまのためにいのちを捨てて働く方がいます。なぜこのようなことになるのか、わたしたちは合理的な理由を探そうとしてしまいますが、答えは見つからないでしょう。これらをすべて含めて神さまが万事を益とされることを信じるしかありません。

金曜日の学びの中で、神さまは一度にすべての光を与えられなかったと教えています。どういうことでしょうか? 今週の学びの中で聖書に忠実なワルド派について書かれています。数年前の牧師会で、ホワイト夫人著書刊行会からの講師に「ワルド派の人たちは土曜安息日を守っていたのか?」という質問がされました。その時に講師の先生からは「残念ながら詳しいことはわからない。けれども個人的な見解としたら、おそらく土曜日安息日は知らなかったのではないだろうか」と話されていました。土曜日の安息日に光があたるのは、もっと後の時代でした。宗教改革者が活躍していた時代、ルターは信仰による義を教えて、ウェスレーは救われた者は、ふさわしい清い生活を送るように教えました。けれども彼らは土曜安息日を守っていませんでした。

彼らは神さまのみこころに従っていなかったのでしょうか? 彼らは与えられた光に忠実でした。いのちをかけてこのことを伝えて行きました。そして今日のわたしたちには、信仰による義などの教えに続いて、安息日の光が与えられたでした。だからわたしたちはその与えられた光に忠実で従っているのです。大切なのは、今わたしに与えられている光にどれだけ忠実に従うのか、これが神さまからわたしに語りかけられていることなのです。