安息日学校部

20240107安河内アキラ解説

2022年第4期「永遠の命」

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第7課 あなたの慈しみは天にまで及び 2月17日

 

暗唱聖句:主よ、諸国の民の中でわたしはあなたに感謝し/国々の中でほめ歌をうたいます。あなたの慈しみは大きく、天に満ち/あなたのまことは大きく、雲を覆います。 詩編 57:10、11

                                                              

今週の聖句:詩編 136 編、詩編 51 編、詩編 130 編、詩編 113 編、詩編 123 編

                                                              

今週の研究:詩編は、人間が神の憐れみに完全に依存しているという事実を強調しています。幸いなことに、神の憐れみが永遠であることは、神の被造物と神の民の歴史の中に証明されています(詩編136編)。永遠の神の前では、人間の命は草のようにはかないものですが、神は人間を憐れみ、その力を新たにしてくださいます(同103:3、5、15)。そして、人間は神の内に永遠の約束を持っています。

                                                              

日曜日:主の驚くべき大きな御業は、ほかの誰にも真似できず、主の支配を否定できない形で示すものです(詩編136:4)。神は、異教徒が崇拝する天と地と天体を創造されました(申4:19)。しかし詩編は、異教徒の神々から、ひいては人間が作り、人間が頼るあらゆるものから、権威を奪い去ります。それらは被造物の単なる産物にすぎません。単に作られたものであり、創造主ではありません。 これは決定的な違いです。

主の強い手と伸ばされた腕という比喩(詩編136:12)は、神の力の有効性と神の慈しみが及ぶ広い範囲を強調しています。

創造と歴史における神の慈しみは、神に信頼し、神の契約に忠実であり続けようという気持ちを神の民に起こさせるはずです。「慈しみはとこしえに」とい う反復句は、この詩の中で26回繰り返されており、主が変わることなく、新し い世代にも過去の恩恵を繰り返してくださることを礼拝者に改めて保証しています。神はご自分の民を御心に留めておられ(詩編136:23)、恵みの契約に誠実です。主の永続的な慈しみを信じることは、聖書の信仰の核心であり、そこには喜びに満ちた礼拝と信頼、そして沈黙と悔い改めが含まれます。

                                                              

火曜日:神の子らは、主を待ち望むように召されています(詩編27:14、詩編37:34)。「待つ」に相当するヘブライ語の「カワー」の文字どおりの意味は「伸ばす」 で、「希望」に相当するヘブライ語の語根です。従って、主を待つとは、悲惨な状況に受動的に身を委ねることではなく、むしろ希望を持って「伸ばす」こと、つまり主の介入を切に期待することです。詩編記者の希望は、個人的な楽観論に根拠があるのではなく、神の言葉に根拠があります(詩編130:5)。主を忠実に待ち望むことは、決して無駄なことではありません。なぜなら、暗い夜 のあとには、神の救いという朝がやって来るからです。

詩編記者の個人的な嘆願が、いかに共同体全体の嘆願となるかを見てください(詩編130:7、8)。個人の幸福は、民全体の幸福と切り離すことができません。従って、人は自分のためだけに祈るのではなく、共同体のために祈るのです。信者である私たちは共同体の一部であり、共同体の一部分に影響を与えることは全員に影響を与えます。

                                                              

水曜日:神の偉大さと配慮は、神の驚くべき超越性の中で完全に認識することはできませんが、神の慈悲と憐れみの行いの中で明確になります。貧しい人、乏しい人、虐げられている人たちは、神が彼らのために驚くべき逆転劇を起こされることで、神の主権的な力を直接体験するでしょう。高く上げられた神は、御力を用いて低められた人々を高く上げることによって、ご自身の偉大さを示されます。人々は自由に主に近づくことができます。なぜなら、神の絶対的威厳と優越性によって、神が恵み深い創造主であり、維持者であられること、そして人々が神の僕、神の愛する子どもであるという事実は変わらないからです。

従って、礼拝は、神の偉大さだけでなく、神の恵みによっても動機づけられ ます。賛美は、時間と空間に制限されません(詩編113:2、3)。神の偉大さと憐れみは、イエス・キリストの中に最もよく明らかにされています。この方は、堕落した人類を引き上げるために、みずから進んで天から身をかがめ、十字架で亡くなるほど低くされました(フィリ2:6~8)。神が私たちのためにしてくださったことのゆえに、私たちは神を礼拝し、賛美しますが、その最大の理由は、 この十字架にあるのです。

                                                              

神さまは、わたしたちが天国へ入ることができるように、キリストが十字架に架かって身代わりとなって道を開いてくださいました。わたしたちは、その身代わりの贖いを信じて、受け入れることが大切です。今週は神さまがなぜそこまでしてくださったかについて学びます。今週、最初に詩編の136編を学びます。この詩編では創造から始まって、様々なできごとについて、それを通して「神さまのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と讃美をしています。これはどのようなことを教えようとしているのでしょうか。それはいのちを与えてくださったことから始まって、戦いで勝利をすることができたのも、すべて神さまのいくつしみによると讃美しています。そこにはわたしたちの自分たちの力があるのではありません。もし神さまが罪人であるわたしたちを裁かれたならば、その場でわたしたちは滅ぶしかないのです。けれども神さまのいつくしみで、わたしたちは赦されて、そして福音を語ることができます。

これは聖書全巻に流れる真理です。パウロも救われたのはわたしに力ではないことをくりかえしています。(エフェ1:7、ローマ9:16参照)そして神さまのあわれみによって活かされていることを、わたしたちがしっかりと自覚できれば、他の人もゆるしてそして愛することができるのではないでしょうか。