安息日学校部

20220414安河内アキラ解説

2022年第4期「永遠の命」

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第14   すべてのものが新たになる   12月31日

 

暗唱聖句:すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」 と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。 黙示録 21:5

                                                                 

今週の聖句:ペトロ 第二3:13、黙示録 21:3、22、1ヨハネ 3:2、3、1ペトロ 1:22、イザヤ 25:8、黙示録 22:3~5

                                                                  

今週の研究:今週私たちは、新しい天と新しい地の栄光に満ちた約束について考えます。そこには天の神殿、神のご臨在、死と涙の終わり─そして、最後に、神の愛の最終的な勝利が含まれます。

 

                                                                 

月曜日:天の聖所または神殿は、常に天の軍勢が神を礼拝する場所でした。しかし、罪の出現とともに、聖所は礼拝の場所であると同時に、人間に救いを提供する場所にもなりました。「罪の問題が終わると、天の聖所は再びその当初の働きに戻る。黙示録21:22で預言者ヨハネは、全能者である神、主と小羊とが神殿であるから、彼はもはや都の中に神殿を見なかったと述べている。しかし、それはもはや、造られた者たちが来て、神との特別の交わりに入るための主の家はなくなったということなのだろうか。決してそんなことはないのである!」(リチャード・M・デイビドソン『探り、生き、教えるためのみ言葉』31ページ、英文)。

黙示録は、礼拝を受けられるお方と、礼拝をしている者たちに特別な注意を払っています。この天の礼拝は、神と小羊を中心としています(黙5:13、同7:10)。常に、また、そうあるべきであるように、キリストが礼拝の中心です。

礼拝者たちは、「大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くした」(黙7:14)者たちです。彼らは神の贖いと変える力の生きた証人です。彼らは、神ご自身と、神のなされたことのゆえに神を賛美するのです。

                                                                   

火曜日:いくつかの今日の聖句は、清さと神を見ることに関連していることに注目してください。「心の清い人たちは神を見る」、言い換えれば、神を見る者は、「御子が清いように、自分を清めます」(1ヨハ3:3)。

私たちの天への資格はイエスの死によってすでに確かなものとなりましたが、私たちは、今、この地上で、永遠の家郷へ入る備えをするために清めの過程を経験するのです。そしてその清めの中心は、神の御言葉への服従です。

                                                                 

水曜日:永遠に地獄の火で苦しむという霊魂不滅の考えは、新しい天と新しい地には「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙21:4)という聖書の教えと相反しています。もし永遠に燃える地獄の教えが真実なら、「第二の死」は宇宙から罪と罪人を滅ぼさず、悲しみと嘆きの永遠の地獄に閉じ込めるだけです。そうであれば、宇宙は二度と創造当初の完全な姿に回復されることもありません。しかし、主を賛美すべきは、聖書がそれとはまったく異なる光景を描いていることです!

                                                                

木曜日:ルシファーの反逆とアダムとエバの堕落の後、神はこの2人の罪人を滅ぼすこともおできになりました。しかし、被造物に対する無条件の愛の表現として、神は、ご自身が提供するものを受け入れるすべての人を救うために、憐れみ深い計画をお立てになりました。これが、「救いの計画」として呼ばれるものであり、この計画は、天地創造の前に存在していましたが(エフェ 1:3、4、 2テモ1:9、テト1:2、黙13:8)、堕落直後に、エデンで初めて人類に示されました。その後、ヘブライ人の聖所の奉仕という型と影のうちに示されました(出25章)。そして、イエスの生涯、死、復活を通して完全に明らかにされたのです(ロマ5章)。

この救いの計画の中心は永遠の命の約束であり、イエスの功績に基づき、受け入れる者すべてに信仰によって与えられ、十字架において備えられました。 十字架以前も以降も、救いは常に信仰によるものであり、決して行いによるのではありません。私たちの行いは、救いに対する応答の表れです。

                                                                 

いつもよりも一回多い、14回の学びが終わります。みなさまは今期の学びをどのようにお感じになりました。もっと永遠のいのちについて、聖書の中から様々な記録が示されて、今まで気づいていないことを教えられるのかと思いましたが、天国の情景について学ぶことは今週だけでした。イエスさま自身も天国のことについては、住まいがたくさんある(ヨハネ14:1参照)ぐらいしか、天国の情景については具体的に話していません。これはなぜでしょうか。天国は神さまが与えてくださるものです。わたしたちがお願いして、天国に何かを追加していただいたりするものではありません。神さまが最善のものを用意されているのです。親が子ども喜ぶように、できるかぎりのことをすることと同じように、神さまもわたしたちのために御子を惜しまずに与えてくださったのです。その神さまが最善のものをご用意くださると信じていたら、あとは詳しいことはおまかせすれば良いのです。

もう一つ、天国において何をするかです。最も大切なことは、神さまの前で礼拝をすること、これが一番の目的なのです。もちろん生き別れた家族や愛する人と会うことも大きな希望です。けれども、ほんとうの目的は、神さまと顔と顔をあわせて正しい関係に戻ることなのです。イエスさまは天国の情景について多くを語られなかったのは、わたしたちが天国で別のことを求めるようにならないためでもあったのかもしれません。