安息日学校部

20220408安河内アキラ解説

2022年第4期「永遠の命」

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第8   死に対する   11月12日

 

 

暗唱聖句:その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。 ヨハネ第一 5:11、12

                                                                 

今週の聖句:1 コリント 15:12~19、ヨハネ 14:1~3、ヨハネ 6:26~51、 1 テサロニケ 4:13~18、  1 コリント 15:51~55

                                                                 

今週の研究:キリストにある者たちだけが永遠の命を持つこと(1ヨハ5:11、12)を強調することによって、ヨハネは霊魂の無条件の不死説を論破しています。キリストとの交わりから離れれば永遠の命はありません。ですから、新約の希望はキリスト中心の希望であり、この死ぬべき存在がいつの日か不死の存在になるという唯一の希望なのです。

                                                                 

月曜日:イエスが昇天されてから幾世紀もの時が流れても、再臨の約束は今なお意味を持っています。なぜでしょうか。私たちにあるのは、この短い生涯(詩編90: 10)、それに続く墓の中での無意識の休息(コヘ9:5、10)、そして最後の復活であり、その後に私たちの運命を変えるものは何もないのです(ヘブ9:27)。(第3課で学んだように)死者1人ひとりに関する限り、すべての死者は意識がない状態で眠っており、キリストの再臨の時は、死んだ後のわずかな一瞬ののちにすぎません。あなた個人について言えば(各時代のすべての神の民と同様に)、キリストの再臨の時は、あなたの死後、ほんのひと時ののちにすぎないのです。だ とすれば、その時は間近だと言えないでしょうか。

1日過ぎるごとに、天の雲に乗って主イエス・キリストが栄光のうちにおいでになる日が1日近くなるのです。私たちには、主がおいでになる日が「いつ」 であるかわかりませんが、私たちにとって真に重要なことは、主は必ず「来られる」ことです。

                                                                 

火曜日:説教の中でイエスは、永遠の命についての三つの基本的な概念を強調されました。第一に、彼はご自身を「天から降って来て、世に命を与える」(ヨハ6:33、58)パンにたとえます。「わたしは命のパンである」(同6:35、48)と宣言することによって、イエスはご自身を旧約聖書の偉大なる「わたしはある」(出3: 14)という者として示されます。第二に、彼のうちに永遠の命があると説きます。 「わたしのもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハ6:35)。そして最後に、イエスは不死の賜物を終わりの日の復活と結びつけ、聴衆に三度、「わたしがその人を終わりの日に復活させる」(同6:40、44、54)と保証されます。

その言わんとすることは明らかです。キリストによらずに、人は永遠の命を得ることはできません。しかし、キリストを受け入れ、永遠の命の保証を与えられた後も、私たちは死を免れることはできない存在であり、死すべき者です。 再臨においてイエスは私たちを復活させ、その時に、すでに私たちが持っていた不死という賜物をくださるのです。この賜物の保証は、霊魂が無条件に生きることによるのではなく、イエスにある信仰によって与えられるイエスの義によるのです。

                                                                 

水曜日:もし死んだ義人の魂がすでに天で主と共にいるのであれば、パウロはクリスチャンの希望である終わりの日の復活に触れる必要はなかったのです。彼は、義人たちはすでに主と共にいるとだけ述べれば良かったはずです。しかし、そうでなく、彼は「イエスを信じて眠りについた人たち」(1テサ4:14)は、終わりの時に死から復活すると言っています。 最後の復活の希望は、悲しみに暮れるテサロニケの人々に慰めをもたらしました。同じ希望は、死が私たちから愛する者たちを奪い、痛みを伴うとき、確信を持って死に立ち向かう助けとなるでしょう。

                                                                   

木曜日:人気のある何人かの説教者たちは、この「神秘」(1コリ15:51)は、キリストの栄光ある再臨の7年前に起こる教会の「隠れた昇天」〔一般には「秘密携挙」と呼ばれる〕であると主張しています。この「隠れた昇天」によると、忠実なクリスチャンは、突然、音もなく、密かに天に連れ去られ、他の人々は、 何が起こったのかと不思議に思いながら地上に留まります。人々は突然、運転手のいない車に乗っていることに気づくかもしれません。運転手が昇天したために、車中に「ただ衣服だけが残されている」のを見ます。この全16巻かならなる『レフト・ビハインド』シリーズは、ベストセラーとして4本の映画にもなり、数百万の人々に誤った教えを広めることになりました。

もちろん、このように再臨と昇天を分けることを支持する聖書の記述はありません。ここでパウロが述べている「神秘」とは、キリストの再臨の時に復活した義人たちに加わるために、生きている義人たちが変えられることを言って います。これが「昇天」であり「隠れた昇天」などは存在しません。すべての生きている人間は再臨を見る(黙1:7)のであり、キリストの再臨を知らせるラッパの音と共に、死人の復活と生きている者たちの栄化の両方が起こる(1 コリ15:51、52)のです。

                                                                  

今期は永遠の命について学んでいます。この永遠の命は、人間が業や功徳を積んで自らを清めた結果に得られるものではありません。ましてや献金の額やお札を買ってなどということは決してありません。イエスキリストを信じることによって与えられます。新約聖書には、再臨と復活について具体的に書かれています。今週は再臨についての異なる二つの考えを学んでいます。

まず最初は霊魂不滅です。肉体は死んでも魂は天へあげられるという考えですが、これは今期の中で今までも何回が書かれているので今週は省きます。もう一つは、秘密携挙と言われる教えです。木曜日の引用文にも書かれていますが、再臨の7年前に神さまが救われる人を選んで、先にそっと天へ上げられるという教えです。人々は、不思議な現象に驚きますが、これが再臨の前兆と気づいてリバイバルが起こるという教えです。また7年前と限定するのではなく、天に上げられる人は、秘密裏に天国へ行き、再臨はわたしたちが二度目の復活と言っている、キリストが最後の裁きをなさる時が再臨と考えている人たちもいるようです。ペンテコステ系の教会の中で広がっている教えですね。

けれども水曜日の引用文にありますが、この義人が先に天に上げられるとしたら、そのように聖書に書けば良いわけで、再臨がありその時に復活するとはっきり書かれている以上、わたしたちはそのみことばを信じて行けばよいのです。わたしは仕事においてもたくさんの方を看取りました。神さまが、その悲しい時でも導いてくださる場面に何回も立ち会いました。人類が必ず通らねばならない死を通しても、神さまの愛がわたしたちに語りかけられます。