安息日学校部

第7課 聴覚しょうがい者用: 平本 光

2019年第3期「この最も小さい者ー助けを必要としている人たちへの奉仕」

PDFダウンロードルビ付きの原稿はPDFからご覧ください

第7課 イエスと困窮(困り苦しむ)している人たち 平本 光

 

今週の学びを通して、イエス・キリストが生きている間に困ることや苦しむ人と多くの共通した部分を持っておられたこと、困り苦しむ人に寄り添いその必要を満たすことで、神が共におられることを教えています。

 

1.安息日午後:今週のテーマ

イエス・キリストのその人生は預言された生涯でした。イエスの人生は前もって預言・予告されていたのです。イエスが生まれる前の時代の話が書かれた旧約聖書に300回以上イエスのことが書かれています(イザヤ7:14、ゼカリヤ11:13、ゼカリヤ9:9、詩篇22:1)。それにも関わらず、救い主について人々に教える立場にある宗教指導者たちは、自分たちの立場を奪われたくないためにイエスを犯罪者として裁き、偽物として十字架で殺すことにしたのでした。しかし、その死ぬことさえも神様の計画のうちにありました。イエスが人として来られたことは①多くの人が神に関して抱いていた誤ったイメージを正すため ②「失われた者を捜して救うため」 ③人類が失ったもの(永遠の命・神のかたち)を回復するため ④十字架で犠牲の死を払い、罪を赦すため ⑤私たちに生き方の模範を示すためだったからです。

 

2.日曜日:マリアの歌

マリアとはヘブライ語でミリアムといい、「強い」という意味がありました。新約聖書の時代も好んでつけられた名前でした。ガリラヤのナザレの出身でヨセフと結婚していたことは聖書から確かめることができます。(ルカ1:26、ルカ4:22)。マリアは神に選ばれイエスの母になりましたが、全く罪のない人ではなく、すべてを理解してイエスの伝道を助けていたわけではありませんでした。ときにはイエスを宣教活動から遠ざけようとしています(マルコ3:21-22)。全てが理解できていたわけではありませんでしたが、神がマリアの人生の中で働いておられることを受け入れていました。また神が力強く、讃美されるにふさわしいあわれみを持っておられる方と理解していました。助けを必要とする人に特別な関心をもって救いを与える方であると受け入れています。このマリアの神への讃美に私たちが見習うべきところがあります。

 

3.月曜日:イエスの宣教声明

イエスは宣教を始めるとき「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」(ルカ4:18-19)と宣言しています。貧しい人、傷ついている人、虐げられている人と同じような経験をしているイエスは、心から寄り添い助けようとなさっています。また同じように私たちも助けを必要としている人たちと共に歩むとき、神が共に居て下さる方であることを思い起こすことができるようになります。関西地区で耳かきの会という、かゆい所に手が届く助けとなる講演会が定期的に行われていました。話を聞くことで安心を得ることもあります。また困っている人の必要を満たしていくことが、私たちの神様を伝える働きにつながることを教えています。

 

4.火曜日:癒されるイエス

イエスの癒しは体だけでなく、心も癒すものでした。頭で思い描いていることを自分の体で表現できず思うようにいかないことで心身のバランスを崩すことがあります。イエスはその場限りの救いや癒しを与えるのではなく、永遠の命へと導くために日々、イエスの救いを求めることを望まれ、行動しておられました。病の人に油注ぎの祈りをすることがあります。それを見ていた人から「祈って癒されるのであれば医者は必要ない。なぜ無駄なことをするのか」といわれたことがあります。確かに医者が専門的な知識で癒すものかもしれませんが、私たちは目の前の問題を神にゆだね、必要を満たしてくださることを信じ希望を持っているので、油注ぎの祈りをしています。イエスを通して永遠の命を得ているということを知らなければ、人生の目的や人間のあるべき姿が分からなくなり、自分の力で生きているのだと勘違いして、どう生きようが、私の勝手だと思うようになり、謙遜さがなくなり、自分の命、他人の命を大切にできなくなり、自分の価値を見失うことがあります。そのような状態から回復してほしいと、イエスは癒しを与えられているのです。

 

5.水曜日:宮清め

イエスの時代、イスラエルの『大祭司』の職は、ローマ帝国の政策に文句を言わずついてくる人だけがその職に就くことが許されました。そのため『王』も『大祭司』も賄賂をローマ側に贈って地位を得ていました。その賄賂を集めるために、神殿の庭に市場を開き、神殿で捧げる動物を売る店や神殿通貨の両替所などを置いて、膨大な手数料を取っていました。このような市場は『アンナス市場』と呼ばれるほどでした。この時、アンナスという人は好き勝手に大祭司という立場を使っていたためにローマの総督(軍隊を任される最高の責任を持つ人)から嫌われて降ろされた人物です。しかし、自分の家族や娘の旦那を使って陰の力を握っていました。その当時はカヤパという人が『大祭司』でしたが、カヤパの義理の父として、神様と会える場所、祈りの家である神殿の中をアンナスは自分のものにしてしまっていました。人々は神を礼拝するための場所でアンナスを神として礼拝している状態になっていました。このような状態を回復するためにイエスは宮清めという形で、販売されている犠牲の動物を追い出し、両替所の机をひっくり返したのでした。今の教会で、神を礼拝する場所ではなく別の存在が支配している状態になっていないでしょうか。昔から続けていた行事や教会を私物化してしまう人物に支配された状態なら、正しい方向に直そうとすれば、攻撃にあうかもしれません。しかし、正しい状態に戻す必要のあることです。「この最も小さい者」の助けを必要としている人たちへの奉仕が、できる状態に回復していく必要が教えられています。

 

6.木曜日:キリストの十字架

ヨハネによる福音書1:29で「世の罪を取り除く神の小羊」とイエスを表します。旧約聖書において罪がゆるされる方法はたった一つでした。それは罪を犯したら、羊の上に罪を乗せ、その羊を屠れ(体を切り裂く)というものでした。そうすることで罪を犯した人の身代わりに羊が罪を肩代わりして死ぬことによってゆるされるという制度でした。この方法を通して4千年間、子羊が犠牲としてささげられてきました。ヘブライ人への手紙9:22「血を流すことなしには罪のゆるしはありえない」とあるように罪の結果として負わなければならない責任を子羊が身代わりになってくれることでゆるされるのでした。そしてこの羊をささげる制度は、イエスが本来責任を取ってくださる代わりに行われていたものでした。イエスが、罪をかぶって死んでいく小羊だったのです。4千年間、屠られ続けられてきた罪の犠牲の羊が、イエス・キリストなのです。犠牲という言葉を辞典で調べると「自分を捧げて他のために尽くすこと。ある目的を達成するために、それに伴う損失を顧みないこと。あることや、ひとのために、自分のいのちやたいせつなものを、すてること」、と出てきます。それはごみを捨てるようなものです。様々な人の中にできたごみを、神様が責任をもって回収され跡形もなく処分されます。もしゴミ収集車が来なかったら、その人の中はゴミだらけになって苦しい生活になります。コリント第二の手紙5:21に「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた」と書かれているように私の罪をまったく関係のないイエス・キリストが代わりに責任を取って罪の処理をされるのです。キリストはこのようなお方なのです。

 

最後に

「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(ヨハネによる福音書6:37)。

キリストは決して、どんなことがあってもあなたを追い出さず、見捨てることはないのです。