アフリカ系アメリカ人初のアドベンチスト医師は、その生涯と働きにおいて、常に前進し続けました。
シャーロット・イズベルは1876年、バージニア州に生まれ、オハイオ州コロンバスで育ちました。南北戦争後の暴力と人種的偏見から逃れるため、家族で引っ越したのです。彼女は「ロッティ」と呼ばれ、20歳の時に家族全員がアドベンチストになりました。
彼女は教師になり、学校で働く計画を立てていました。しかし、向学心を生かしてバトルクリークのアドベンチスト看護師養成学校に行ってはどうか、と教会員から提案されました。
ロッティは勧めに従いました。看護師課程を修了すると、ケロッグ博士から、アメリカン・メディカル・ミッショナリー・カレッジで更に医学を学ぶよう勧められました。ロッティはアドバイスに従い、首席で卒業し、アフリカ系アメリカ人初のアドベンチスト医師になりました。
彼女は、テネシー州ナッシュビルに療養所を開きましたが、地域住民は彼女の行う自然療法に興味を示しませんでした。そのため、ロッティは、アラバマ州のオークウッド・マニュアル・トレーニングスクールで研修医となる招きに応じます。その間(かん)、現在のオークウッド大学の看護師養成課程を開設しました。
デイビッド・ブレイク牧師と結婚したのもこの頃でした。2人は以前から手紙のやり取りをしており、結婚後に夫婦はナッシュビルに引っ越しました。そこで、数年前に開いた療養所を再開し、デイビッドは医学を学びながら、牧師として働きました。
その後、ブレイク夫妻は、パナマでの宣教の召しを受けました。2人の医師は4年間、自給の医療伝道者として働きました。また、教会を立ち上げ、地域に奉仕し、5人の子どもを育てました。
パナマでの働きはたくさんありましたが、家族が健康を害したため、一家はハイチに向かい、宣教を続けました。新たに教会を設立し、地域社会に医療サービスを提供しました。
数年後、南部で伝道を続けようとアメリカに戻りました。ところが、デイビッドが肺炎にかかり、亡くなってしまいます。ロッティと子どもたちは悲しみに暮れました。
しかし、ロッティは宣教を止めず、最後の22年間はペンシルバニア州のピッツバーグで過ごしました。女性や子どもの医療を専門とし、大都市のスモッグが原因で引き起こされる「煙の都市」という肺炎の治療法を発見したことで知られています。
彼女は信仰、忠誠、謙虚さ、宣教という遺産を残しました。シャーロット・イズベル・ブレイク医師は、神様の働きに人生を捧げ、あらゆる地域の人々の生き方を変えるために神様に用いられたのです。
アドベンチストの歴史をもっと知りたい方は、こちらのウェブサイトをご覧ください。
2022年4期アドベンチスト・ミッション