セブンスデー・アドベンチスト教会

アドベンチストと1918年のインフルエンザ・パンデミック

アドベンチストと1918年のインフルエンザ・パンデミック

アドベンチストと1918年のインフルエンザ・パンデミック

アドベンチストと1918年のインフルエンザ・パンデミック
何を学ぶことができるか?

マイケル・W・キャンベル(サウスウェスタン・アドベンチスト大学宗教学博士)

近代史上最悪の世界的感染大流行(以下、パンデミック)は、1918年から1919年のインフルエンザです。その犠牲者は、最低でも5千万人以上にのぼります。これは、間違いなくスペイン発祥ではなく、本来、アメリカ・インフルエンザと呼ばれるべきであるのに、スペインかぜという間違った名称で呼ばれました。歴史家であり、このパンデミックに関する研究の第一人者であるジョン・バリーは、感染の発生源がカンザス州の片田舎であることを突き止めました。近代交通手段の容易さ、特にアメリカの鉄道がこのウイルスを運び、ひそかに世界中の都市へ流入させたのです。(注1)

このパンデミックが人々をうろたえさせたのは、その死者の多くが若者や健康な人々だったからです。最初の症状の発現からわずか24時間で死に至る可能性がありました。病院は間もなく医療崩壊に陥ります。人々は友人や隣人に食物を届けることをこわがり、彼らは文字通りしていきました。ある都市では遺体がいたるところに積み上げられ、死亡者数の急増に伴って共同墓地が掘られました。1918年、第一次世界大戦のために兵士が移動すると、感染はアメリカ全土、そして彼らが向かったヨーロッパへと拡散します。輸送船での移動中に感染は広がり、彼らが上陸するころには、部隊内での大規模感染が起きていました。戦争が休戦に向かうにつれ、感染は両陣営を無差別に攻撃するようになります。

感染に対する危機感よりも愛国心が勝ったため、官僚たちはこの事実を伏せ、もしだれかが公にインフルエンザについて議論しようものなら告訴されました。情報の不足は、うわさやデマの急速な流布を意味しました。たとえば、この病気はドイツの生物兵器だといううわさもありました。さらなる悲劇は、戦時国債への支援金を募る決起集会でした。フィラデルフィアで行われたこの集会には、医師からの警告を無視して20万人が集まり、最終的に15千人が感染して死亡するという公衆衛生上の大惨事が起こりました。

アドベンチストの対応

この公衆衛生上の危機に対して、アドベンチストはどのように対応したのでしょうか。

このパンデミックには、ウイルスの変異に伴う3つの波がありました。そのうち2つ目の局面が、終結間近の戦争同様、最悪、かつ最大のものでした。アドベンチストも危機を意識していた様子が委員会の議事録に残っています。アメリカ先住民のためのアドベンチストの学校は、「スペインかぜ」によって教員を失いました。教会指導者たちは、おもな教会行事に対して延期を含む緊急時対応策を講じました。

同様に、教会指導者たちは会議の開催についても、安全の確保と、優先すべき医療奉仕を妨げないための代替案を用意しました。(注2)

感染の第3波が進行中であった19191011日までに、世界総会の指導者たちは、「緊急時対策のための教会編成」という解決策を可決しました。それは「大規模感染、もしくは深刻な公衆衛生的危機に際しては、各教区によって可能な限り、あらゆる働きがなされるべきである。それには、教会を決起させ、国民の必要に応える準備をし、他者に援助を提供し、対応可能な医師や看護師を招集して指揮に当たらせ、その状況が緊急に必要とするであろうことに迅速かつ細心の注意を払って応えることが含まれる」というものです。(注3)

行動への呼びかけ

行動を起こすようにとの呼びかけの中で最も心を打つ声明は、世界総会医事伝道部の総務であった医師のWA・ルーブルによるものです。彼は、これが史上最悪のパンデミックであると認識していました。アドベンチストの医療サービスも医療崩壊に陥りました。ルーブルは、一部のアドベンチストが、「わたしはあなたより清い」という立場をとったことに警鐘を鳴らします。その立場は、自分たちが罹患しないのは「(彼ら)自身の義なる証拠であるが、(彼らの)兄弟の不幸は、彼らが忠実さを欠いたせいだ」というものでした。このような人々は、健康改革の「変人」に他なりません。さらにルーブルは、パンデミックを「終末に来るべき大きな苦難の前触れ」だと早合点をする人々に対しても警告をしました。

その代わりに、ルーブルはこれを「世界に福音を携えていく」ための機会として考えるよう、アドベンチストに呼びかけました。教会と学校が閉ざされ、移動が制限され、文書伝道者たちは書籍を販売する特権を失っている中、彼は教会に問いかけます。「インフルエンザの後、どうしたら良いのか。このような状況に備えるために、アドベンチストは何をすべきだろうか」。彼はアドベンチストの各家庭を、医療伝道センター、教育の場、奉仕の場にするよう呼びかけました。

彼は言います。「もし、用意できていたなら、すべてのセブンスデー・アドベンチストには普段の10倍奉仕できる機会があっただろう。これは伝道のために尽力し、ヤコブの言う『清く汚れのない信心』を実践するためのなんというチャンスだろう! しかしながら、ある人々は感染することを恐れるあまり、苦しんでいる人々に援助を提供することを控えている。……私たちがしているような体験の中で、社会的、そして職業的な壁は崩れ落ちる」。それでは、どうすれば良いのでしょうか。「すべてのセブンスデー・アドベンチストが医事伝道者になろうではありませんか」(注4)

適用

この呼びかけに対して、アドベンチストがどのように応答したかの一例が、ミネソタ州ハッチンソン神学校での出来事です。180人いる学生のうち、半数がこの病に倒れました。学校は自主隔離をし、感染した学生も隔離し、健康的な食事や、胸部と腹部への湿布によって免疫システムを強化することに力を注ぎました。回復したあとも、感染の拡大を防ぐために、さらに5日の隔離期間を設けました。また学校は、地域の人々の治療にも踏み出しました。

今日、専門家の間では、この大規模感染をこれほど致命的にした一因が免疫システムの過剰反応であったことが知られています。医事伝道者たちはこの知識がなかったにもかかわらず、感染によって周囲への手助けを妨げられないよう、最善を尽くしたのでした。

また、「スペインかぜ」をこれほど致命的にしたのは、食物や治療を必要としている人への援助をやめるよう、人々を動かした恐怖だったのです。

ソーシャル・ディスタンス(注5)は、衛生状態の改善と健康改革に連動するならば、パンデミックの苦しみを緩和させるうえで効果的です。(注6)

またアドベンチストは、数々の論文やわかりやすい回覧パンフレットを生み出しました。パンフレットは、医療機関で治療を受けられない全国の人々の間でベストセラーになり、人々は、病人の回復のために家で行うことができる水治療法や他の簡単な健康治療を学ぶことができました。

すでに健康改革者として名を知られていたアドベンチストは、この危機的状況が伝道のための絶好のチャンスであるとも考えていたのです。(注7)

*本稿は、『アドベンチスト・レビュー』2020327日号に掲載された‘Adventist and the 1918 Influenza PandemicWhat can we learn?’の抄訳です。

(注1)本導入部はJohn M. Barry, The Great Influenza: The Story of the Deadliest Pandemic in History (New York: Penguin Books, 2018)に基づいています。バリーはこの大規模感染の研究に関する第一人者とされている。
(注2)The General Conference Committee Minutes, Sept. 15, 1919, p. 381.(英文)参照
(注3)General Conference Committee Minutes, Oct. 11, 1919, p. 412.(英文)
(注4)W. A. Ruble, “After Influenza, What?” Review and Herald, Oct. 31, 1918, p. 16.(英文)
(注5)または社会距離拡大戦略。インフルエンザなどの感染症対策において、人と人との距離を開け、接触機会を減らすこと。(国立感染症研究所、2009年)
(注6)“Complimentary to the Danish-Norwegian Seminary,” Review and Herald, Jan. 9, 1919, p. 32.(英文)
(注7)See advertisement, Review and Herald, Dec. 25, 1919, p. 31.(英文)

 

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