「魂のケア」
――もう一つのパンデミックに感染しない方法
マーク・フィンレー(伝道師、アドベンチスト・レビュー誌の編集主幹)
この記事は、2020年4月14日に行われた世界総会春季会議のために作成されたプレゼンテーションを編集したものです。部分的に口語表現を残しています(編集者)。
この世界は、命を脅かしつつある新型コロナウイルス感染症の世界的感染大流行(以下、パンデミック)によって、身動きが取れない状態になっています。200万人以上の人々が感染し、すでに12万5千人以上の人々が命を落とし、その数はとどまるところを知りません。
医療従事者にとって最も必要なのは、彼らを外傷や感染、あるいは疾患から守る、防護服、ヘルメット、グローブ、フェイスシールド、ゴーグル、マスク、呼吸器などの個人用保護具(PPE)です。
PPEは、適切な使用によって、感染性物質(ウイルスや細菌による汚染物質)から皮膚、口、鼻、目(粘膜)を守るバリアとして機能します。コロナウイルス感染症は空気感染するため、必要な保護具の着用が、医療従事者にとって極めて重要です。アメリカの病院は、必要な個人用保護具を与えられなかった医療従事者、特に看護師たちによって抗議を受けています。
医療従事者、医師、医師助手、ナース・プラクティショナーや看護師の感染数は驚くべきものです。スペインでは、1万2千人以上の医療従事者がコロナウイルス検査で陽性となり、(大流行の中心地である)中国の湖北省では3千300人の看護師が陽性と判定されました。アメリカにおける正確な数は分かっていませんが、少なくとも数千人の医療従事者が感染している模様です。
医療従事者は忙しく他者のために働いていますが、彼らにも免疫はありません。彼らには個人用保護具が必要なのです。
死に至るもう一つのパンデミック
死に至るもう一つのパンデミックは、コロナウイルスよりもいっそう命取りです。罪というウイルスは、全人類を感染させ、私たちはその戦いの最前線にいます。教会の行政者、牧師、部局長、そして、あらゆる形の福音宣教に携わる人たちにも、個人用保護具が必要です。もし、私たちが忙しさの中で、私たちの個人用保護具をなおざりにするなら、罪の罪に感染することでしょう。私たちがひどく忙しいときに、もし個人用保護具を身に着けないなら、私たちも死に至る病にかかってしまうでしょう。
使徒パウロが次のように書いたとき、彼も同じように考えていたはずです。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(エフェソの信徒への手紙6章12、13節 ©️日本聖書協会)。神の武具こそが、罪のウイルスに対する私たちの個人用保護具です。
医療の専門家であれば、個人用保護具を身に着けずに患者の病室に入ることなど、考えられないでしょう。私たち福音宣教者は、日々、何百万もの人々が罪のウイルスに感染している、悪魔の領域に入っていきます。私たちには免疫がありません。防護なしに立ち入れば、霊的大惨事になります。
神の武具を身に着ける
つい最近、尊敬を集める1人の教会行政者が、その同僚の1人と伝道の課題について話し合っていました。話題は、彼らの霊的な生活と忙しさの関係性に移り替わりました。そして、その行政者は、次のような興味深い、悲劇的な告白をしました。「私が全力で、私の行政者としての全責任を果たそうとすると、あまりに忙しくて、祈りや聖書研究のために多くの時間をとることができません。それは私ではなく、妻の役割になっています」
とある地区牧師会のあと、参加していた牧師の1人が、講演者に近づいていき、二人だけで話したいと申し出ました。彼らが部屋の隅で二人きりになると、その牧師は次のようなことを言ったのです。「誰も知らないのですが、私は消耗し、燃え尽き、疲れ果てました。これ以上、牧師を続けることはできません。ガス欠で煙を上げながら走っています。助けてくれませんか?」
チャールズ・スウィンドルは、自身の著書『全能の主との親しい交わり』(注1)の中でこう言っています。「喧騒や話し声、そして気がおかしくなるほど忙しいスケジュールは、私たちの感覚を鈍らせ、静寂の中にある神の小さな声に対して、私たちの耳を閉ざし、神のみ手が触れる感覚を失わせる」
誰かはこう言いました。「浅薄は私たちの時代の呪いとなっている。精神的問題の最たるものは、即座に満足が得られるという原理である。私たちに最も必要なのは、知的な人々や、才能ある人々の数ではなく、深い洞察力のある人々の数である」
私たちがものすごく忙しく、何かを成し遂げるために定められた時間よりも、もっと多くのことをしなければならないと分かったときには、深く、内省的な祈りや、変革をもたらすような聖書研究を、いとも簡単に怠ってしまうのです。
はじめの愛を保つ
ヨハネの黙示録において、ヨハネは、エフェソの教会を次のように描写しています。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず……しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった」(ヨハネの黙示録2章2~4節 ©️日本聖書協会)。
ジョン・ストットは、それを次のように言います。「彼らがはじめに感じた恍惚のひらめきは過ぎ去ってしまった。キリストに対する、彼らのかつての献身は弱まった。彼らは、イエスを愛していたのに、彼らの愛は冷めてしまった」
任務が献身に影を投げ掛けてしまったのです。彼らがキリストにあって誰であるか、ということよりも、彼らがキリストのために何をするか、ということが上回ってしまいました。行いが、存在よりも重要になりました。彼らは信仰の擁護者でしたが、自分たちの擁護している方を見失ってしまったのです。彼らは、キリストを知るために犠牲を払うことの正当性だけを保持したのです。キリストのための彼らの働きが、キリストとの関係よりも重要になりました。
教会の働きの忙しさは、まずキリストを知り、神の恵みを体験し、聖書の真理を内在化させ、そして、活発な伝道によって神の愛のメッセージを伝えるという、福音の優先順序に影を投げ掛けてしまいます。
忙しさについて、聖書のたとえを2つご紹介します。1つは旧約聖書、もう1つは新約聖書からです。
「ところが、僕があれこれしているうちに、その男はいなくなってしまいました」(列王記上20章40節 ©️日本聖書協会)という語り口は、この時のことを要約しています。物語の背景は、こういうことです。イスラエルの王アハブは、アラムの王ベン・ハダドと戦いました。イスラエルが勝利すると、アハブとベン・ハダドは和平協定を結び、アハブはベン・ハダドを逃がしてやりました。
神の預言者は変装し、道脇でアハブ王を待ちました。彼は、見張っていた捕虜を逃がしたので打たれたと言います。「ところが、僕があれこれしているうちに、その男はいなくなってしまいました」(同上)。預言者のたとえは明白です。王は、彼にその捕虜を見張るよう命じていましたが、彼は忙しさのあまり、命じられていた任務に失敗しました。
要点は単純です。忙しさは、私たちにとって大切な何かを失わせるのです。忙しさは、私たちに成し遂げるよう課されていることそのものを、失わせかねないのです。忙しさは、私たちの優先順序を混乱させます。忙しさは、人生の真の目的を忘れさせます。忙しさは、私たちの活動を、信心深さの代わりにしてしまいます。
貴い何かを、忙しさのために失ってしまうことの2つ目のたとえは、イエスの両親の経験の中に見ることができます。イエスの両親は忙しさに心奪われていました(ルカによる福音書2章41~49節 ©️日本聖書協会)。
これは、私たちのよく知っている物語です。イエスが12歳のとき、両親は彼を過ぎ越しの祭りに参加させるため、エルサレムへ連れていきました。過ぎ越しの祭りが終わると、彼らは何千人もの礼拝者と共に家路につきました。彼らは忙しい生活の中で、12歳になる息子イエスが一緒にいないことに気づきませんでした。
この物語の興味深い点は、マリアとヨセフが何1つ悪いことをしていないことです。彼らは、その日の務めに対処し、友人を訪ね、そして、落ち着いて家へと向かっていました。彼らは、とても忙しく、旅の間の毎日の活動に夢中になるあまり、イエスがいなくなったことに気づかなかったのです。
もし、あなたが人混みの中で、子供を見失ったことがあるなら、彼らの思わずゾッとするような思いがよくわかることでしょう。マリアとヨセフはすぐさま、必死でイエスを探し始め、ようやく神殿の中でイエスを見つけました。
エレン・ホワイトは、この経験についての注解に、次のような洞察に満ちた考察を加えています。「1日の怠慢によって彼らは救い主を見失った。そして彼を見つけ出すために3日も心配しながらさがさねばならなかった。1日の怠慢によって彼らは救い主を見失った。そして彼を見つけ出すために3日も心配しながらさがさねばならなかった」(注2)
私たちの直面している危機
生活の忙しさが私たちを圧倒するとき、3つのことが起こり始めます。
焦点を失い始める。今起こっている出来事は、私たちを圧倒しているように見えます。人生に起こるさまざまな問題がより大きく見え、それを解決おできになる神よりも、問題自体に焦点を合わせてしまいます。忙しさの中で、私たちの葛藤に対する神の解決方法ではなく、人間側の答えに目を向けてしまいます。
身体的、精神的、そして感情的に疲れ果てる。私たちは、後悔するようなことを話し、また行ってしまいます。忙しさは、疲労をもたらします。疲労は、私たちを燃え尽きさせます。そして、燃え尽きは、失望をもたらします。忙しい人々は、しばしば、急いで決定を下し、全体像を見失ってしまいます。なぜなら、彼らは、次の問題の解決、あるいは、しなければならないことリストの次の項目に取り掛かることに、あまりにも忙しいからです。彼らには、直面している問題を解決するための、最善策を考えている時間がほとんどありません。
霊的生活が苦境に陥る。私たちは、祈りや聖書研究を怠り始めます。忙しさは疲労をもたらし、疲労は非効率や規律の欠如、感情コントロールの低下、そして、生きがいのある霊的生活の侵食をもたらします。
エレン・ホワイトはそれを次のように言っています。「神に訓練されている者はすべて、自分自身の心や自然や神と交わる静かな時が必要である。彼らは、この世やその習慣や行動と調和しない生活をすべきであって、神のみ旨を知るには、個人的な経験を必要とする。わたしたちは各自その心に、神がお語りになっているのを聞かなければならない。他のすべての声が静まって、神の前でわたしたちが静かに待つ時、心の静けさは神のみ声をいっそう明瞭に聞こえさせてくれる。神は、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とお命じになる(詩篇46篇10節、口語訳)。神のためになすすべての働きには、これが有効な準備となる。こうして心を新たにした者は、忙しい人々の間にあってもまた、人生の激しい活動の中にあっても、光と平安の雰囲気に囲まれる。そうして体力も精神力も、新たな力を増し加えられる。その生活はよい香りを放ち、人々の心を感動させる神の力を表すのである」(注3)
あなたは今まで、次から次へと忙しく走り回り、人生の忙しさに圧倒されていると感じたことはありますか? メールやテキストメッセージの返事をもう1件、電話をもう1件、会議をもう1つ、面会をもう1人。まるで、あなたの人生は「もう1つ」に支配されています。あなたには、すべきことが多すぎます。夜、あなたがベッドに倒れ込むときには、その日に終えることができなかったことで頭がいっぱいになるでしょう。間違いなく、あなたの仕事は完了しておらず、しなければならないことリストは、ようやく半分片付いた程度で、頭はせわしなく働き、すでに過剰なスケジュールに、どうすればもっと多くの仕事を詰め込めるかを必死に考えているので、眠れません。
コロナウイルス感染症のパンデミックのさなか、天は私たちに個人用保護具を身につけ、神のみ言葉と共に過ごすよう招いています。あなたの魂が、聖書のすばらしさに浴することができますように。聖霊が、あなたの心に入ることができるような、静かな場所を探してください。身に余り、受けるに値せず、無償で与えられている、神の恵みを、あらためて感じ取りましょう。
マーク・A・フィンレーは、伝道師、アドベンチスト・レビュー誌の編集主幹です。
(注1) Charles Swindoll, Intimacy With The Almighty (Nashville, Tenn.: Nelson Thomas, Inc., 2000). (英文)
(注2)『明日への希望』704ページ。
(注3)『ミニストリー・オブ・ヒーリング』33ページ。
*本稿は、『Adventist Review』に2020年4月23日に掲載された‘Soul Care――How to avoid infection from another pandemic’の抄訳です。