「危機に際した宗教自由」
――緊急事態における国家権力の活動範囲と、信教の自由ついての疑問に対する答え
ベッティーナ・クラウス(世界総会広報・宗教自由部)
世界中の当局がコロナウイルス感染症の蔓延への対応に苦労している中、政府は、地方から国全体に至るあらゆるレベルにおいて、日常生活のほぼすべての側面に関わるような、新しく、場合によっては前例のない指令を発布しています。政府は、必要不可欠ではない商業を休業させ、公の集会の規模を制限、あるいはそれ自体を完全に禁止しています。政府は多くの場合、法的強制力のある外出制限を発令しています。
公民権や、とりわけ信教の自由を擁護する人々に対して、現状は難題を突きつけています。国家は、集会と移動の自由および、その他の基本的自由を、どの範囲まで、そして、どのような根拠のもとに、奪うことができるのでしょうか? 政府は実際に、直接人が集まる宗教的な集会を禁止したり、教会の集会を解散させるために警察を派遣したりできるのでしょうか? これは、信教の自由に深刻な問題を引き起こすことにならないのでしょうか?
過去数週間にわたって、世界総会広報・宗教自由部(以下、PARL)は、国家がいつ、どれほどの規模で、宗教の自由を含む、市民の自由を合法的に制限できるかについて、問い合わせを受けてきました。
私たちが受けてきた質問と併せて、コロナウイルス感染症に際した市民の自由を理解する助けとなる、一般的原則を以下に記します。当然ながら、あなたの国における詳細情報については、各教区、各教団、もしくは教団のPARL責任者に問い合わせてください。
人が良心に従って信仰を持ち、礼拝のために集まることは、基本的な公民権であり、政府は、その権利を保護する責任を負っているのではないですか?
そうです。国際人権法は、信教の自由と、それに付随する市民の権利を保護することが、国家の責任の中核であることを、明らかにしています。170カ国以上が批准する重要な国際条約である、市民的及び政治的権利に関する国際規約(ICCPR)(注1)は、これらについて数多くの条項を設けています。
それには、あらゆる国家の出国、自国へ入国する権利、個人が合法的に存在できるあらゆる国家の国境間を自由に移動する権利である、移動の自由(第12条)が含まれています。そこには、平和的な集会の権利と、団結の自由も含まれています(第21条、第22条)。また、第18条には、信教の自由を擁護する者とって致命的とも言える自由、すなわち「思想、良心、及び宗教の自由に対する権利」が含まれています。「個人の(この)権利は、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由並びに、単独で又は他の者と共同して及び公に又は私的に、礼拝、儀式、行事及び教導によってその宗教又は信念を表明する自由を含む」。これらの基本的な公民権は、世界中の多くの国の憲法に、同様の言葉で反映されています。
では政府は、どのように宗教的な集会を禁止できるのですか?
端的に答えるなら、信教の自由の権利のいくつかを含む、基本的な公民権は、すべての状況において絶対的ではないのです。国家によって、良心と宗教的信念の領域が強要されることは決してありませんが、それらの信念に基づいて行動する何者かの力が、最も優先されるべき別の必要を前にして、合理的かつ適切に構築された制限の対象とされる場合があります。内的良心とその外部作用を分けるこの区別は、法律と哲学に深く根ざしており、それらは現在の国際法と多くの国の法律の中に反映されています。
どのような公の利益が、そのような異例とも言える政府の干渉を、正当化する可能性があるのでしょうか? ICCPR第18条の言葉を借りて言うならば、個人の信念に従って行動する自由は、「法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみ」に限って、与えられるのです。
同様の条項は、多くの国の憲法にも見られます。より切実な公の利益が、国家に権力を付与し、個人的な信教の自由を含む公民権を制限する場合があるのです。
したがって、最近では前例のない、この世界的なパンデミックに直面している今、公の集会の規模に対する制限や、深刻な公衆衛生上の懸念によって引き起こされた、移動の自由に対する制限は正当化されるのです。そこでは、信者が、礼拝のために集まる自由も対象とされます。
宗教的共同体の多くは、コロナウイルス感染症の蔓延に対する戦いという、より広義の共同体努力の一端を担うため、これらの制限を即座に受け入れて来ました。信仰を持つ人々は、思いやりと責任ある社会の一員として、公衆衛生環境の圧迫の緩和と、特に病気にかかりやすい人を保護するための努力を惜しみません。そして、彼らの「日常生活」を営むことへの一時的な制限をも、進んで受け入れるのです。
しかし、それでは、政府が権力を乱用し、正当化され得ないような方法で、信教の自由を制限する隙を与えることにならないでしょうか?
国際法および多くの国の法律を考慮しつつ、国は、公共の安全および幸福を増幅するために、公民権を制限することがあります。しかし、その力は、無制限に、あるいは気まぐれ、差別的な方法で行使されて良いという意味ではありません。
世界人権宣言や、ICCPR、そしてその他の人権を擁護する国際協定のもと、裁判所は、自由を制限するような政府の行動が正当であるか否かを判定するための手法を規定してきました。同様に、多くの国の裁判所は、憲法の保護下にある公民権に適用された制限の合法性を検証するための、特定の評価基準を持っています。これらの評価基準の表現と手法は、国によって異なるものの、その全般的な用語においては、いくつかの主要な原則に沿って形作られる傾向があります。一般的に、公民権に対する制限は、もし、それらが必要性に比例し、その必要を満たすための最も煩わしくない方法であり、かつ、その意図と目的において差別的でない場合に限って、切実な公の利益を満たすものとして正当化されます。
したがって、今回のパンデミックで、市民の自由に対して課された制限は、おおよそ厳密に調整され、公衆衛生上、正当な目標に直接結び付けられ、平等に施行され、公衆衛生を保護するために、可能な限り最も制限の少ない手段であるはずです。
政府にとって、市民の自由を守りつつ、同時に、公衆衛生を保護するために責任をもって行動することは、大きな葛藤であると認めざるを得ません。これらは決して簡単な決断ではないのです。
しかしながら、コロナウイルス感染症の緊急事態を、特定の宗教あるいは少数民族を攻撃し、反対意見を押しつぶすための隠れ蓑として利用することは、決して正当化できません。さらに、政府が、公衆衛生上の問題と無関係に、公民権を全面的かつ無制限に保留することも、国家権力の危険かつ違法な行使に相当します。世界のある場所では、政府の行き過ぎた政策による恐怖が、想像上のものにとどまらず、現実のものとなって記録されているのです。
信仰を持つ人々は、この困難なときの助けになることができます。合法的かつ一時的な制限は受け入れ、少数グループを対象とする働きかけや、差別に対して警鐘を鳴らし続けましょう。また、制限が安全に解除される場合には、公民権が速やかに完全な形に回復されるよう、主張しましょう。
礼拝に集まる団結の自由の他に、コロナウイルス感染症の危機は、私たちの教会の広報、宗教自由部に関連する、別の問題を引き起こしますか?
はい。コロナウイルス感染症のパンデミックは、人々の信仰に関し、多くの問題を引き起こし、また悪化させています。
1.人種に対する偏見、嫌がらせ、いじめ
歴史を通じて、危機に直面した人々の反射的な行動は、大抵、責任転嫁し、誰かに汚名を着せることでした。それは、数々の悲劇的な結果をもたらしてきました。今日、同様の原動力が働いており、コロナウイルス感染症が最初に世界的な注目を集めてからというもの、アジア系の人々に対する虐待や、差別の報告事例が爆発的に増加しています。
では、私たちには何ができるのでしょうか? 私たちは、噂、陰謀論、そしてヘイトスピーチと戦うことができます。このパンデミックを、特定の民族、または人種に、直接的または間接的に結びつけようとする行為に、釈明の余地はありません。ウイルスの発生源は、特定の地域に結び付けられていますが、それは特定の人種、または民族がウイルスに感染しやすい、拡散しやすいことを意味するものではありません。軽蔑的な方法で人種的、民族的ラベル付けをしたり、ウイルスを特定の集団の責任にしたり、アジア系の人々の扱いを変えることは、明らかな間違いであり、決して容認されるべきではありません。そのような振る舞いは、聖書の世界観と両立しません。聖書の世界観は、すべての人間が平等であり、創造主に愛されている、神の子であると理解するからです。
私たちは、この困難なときに、差別と偏見に耐えている人々のために発言し、思いやりと人間の尊厳への敬意によって特徴づけられた市民的論説を発展させるチャンスを持っているのです。
2.被害を受けやすい地域
多くの集団が、コロナウイルス感染症に対して、類を見ないほど、被害を受けやすくなっています。すでに、人道主義に基づく組織の多くが、世界中で満員の移民収容センターや難民キャンプに迫りくる、潜在的な災害に注意喚起しています。これらの男性、女性、子供たちは、法的な中間地帯に閉じ込められており、安全を確保し、適切な医療を提供するために直ちに対策を講じるためには、役人に全く依存しなければなりません。
私たちは、彼らのために声を上げることができ、またそうすべきです。彼らは、自分たちの声を誰かに聞いてもらう方法を、ほとんど何も持っていません。しかし、私たちは、指導的立場の人々や、公選された役職者と一丸になって、彼らを擁護することができます。
同様に、世界の貧しい地域に住む人々は、ひしめき合った住居、公共交通機関への依存、あるいは、危険性にかかわりなく労働しなければならない環境によって、より高いリスクを抱えています。そして、たとえ病に倒れても、貧困に囲い込まれた人々は、同じ地域の他の人々よりも、高水準の医療を受けにくくなります。悲惨なことに、低所得の地域に属する人は、ウイルスにさらされる可能性がより高く、より大きな経済的苦痛を味わう傾向にあります。すでに、ホームレスや低所得層の人々に食料や介護を提供している団体は、警鐘を鳴らしています。サービスへの需要が劇的に高まっているからです。
私たちには何ができるのでしょうか? 私たちは、可能な範囲で、地域サービス団体を財政的、またはそれ以外の方法で支援できます。また、ADRA(Adventist Development and Relief Agency)のような、国際的な人道主義に基づく組織を、引き続き支援することもできます。また、私たちの指導的立場にある人々や、公選された役職者に、私たちの地域に住む低所得者の必要を優先するよう、促すことができます。
思いやりをもって先頭を進む
困難な状況の中で、私たちの対応を、恐れによって出し入れするのは簡単なことです。私たちは、家族、健康、そして将来どうなるかという恐れに左右されてしまいます。私は祈ります。私たちが、教会、そしてキリストに従う1人として、コロナウイルス感染症のパンデミックによって起こっている問題に対処する中で、恐れではなく、むしろ思いやりをもって、私たちの傷ついた地域に対する塩、光になりたいという願いに突き動かされ、対応することを選択できますように。恐れではなく、人知を超える神の平和が、私たちの心と考えを守りますように(フィリピの信徒への手紙4章6、7節 ©️日本聖書協会)。
(注1) 日本語版『市民的及び政治的権利に関する国際規約』引用元 同志社大学 https://www1.doshisha.ac.jp/~karai/intlaw/docs/iccpr.htm
*本稿は、『Adventist Review』に2020年4月10日に掲載された‘Religious Liberty in a Time of Crisis――Answers to your questions about the reach of government in an emergency and your religious rights.’の抄訳です。