「疫病に対する、初期のクリスチャンの対応」
――彼らの模範は、私たちが、この未曾有の事態を乗り切るためにできることを教える
トラヴィス・マナーズ(南オーストラリア、モーフェット・ベール教会主任牧師)
2019年12月、私が休暇に入った時点では、2020年の教会予定の大半が、入念に計画されていました。ところが、1月半ば、私が家に帰る飛行機に搭乗した頃には、その計画は変わりつつありました。
記録的な干ばつと、観測史上最高の気温によって、未曾有の山火事がオーストラリアを見舞い、広大な土地が焼き尽くされ、多くの人々の夢と希望が、灰と化しました。
私が戻った最初の安息日、私は連続説教のテーマを変更し、代わりに、この未曾有の事態の中で希望を見出し、それを他者へ伝えることについて話しました。
そして、2ヶ月後、私たちはまたしても、「未曾有」という言葉を幾度となく耳にすることになったのです。
山火事は、オーストラリアをはじめとする、数カ国に被害を及ぼしたに過ぎません。ところが、私たちは今、全世界を巻き込んだ事態に直面しています。コロナウイルス感染症のパンデミックは、私たちが一生に一度も見たことのないような健康危機です。それは、私たちの健康のみならず、私たちの生活のあらゆる方面に影響を及ぼしています。
- 政府は、社会的距離確保のための法律を議会で通過させるために奔走し、すでに景気刺激策と経済支援対策パッケージのために、数十億ドルが拠出されています。
- 数千人が失業し、数百万人が自分の雇用への影響、そして、これから家族を養っていくことに不安を抱えています。
- レストラン、クラブ、映画館、パブ、そして、礼拝の場所が閉鎖を強いられています。
- 世界への旅行は全く枯渇し、多くの国境や州境が封鎖されています。
まさに未曾有の事態です!
また、この状況は、不安と恐怖をもたらしています。スーパーマーケットの生活必需品や食料品コーナーは、買いだめによって、根こそぎ空になっています。オーストラリアの首相は、買いだめについて、辛辣な非難をしました。そのあまりの厳しさに、娘からは、オーストラリアの人たちを、まるで問題を起こした自分の娘のように叱りつけていると、言われたそうです!
もちろん、気持ちを明るくしてくれるような場面もあります。フェイスブックで誰かがぼやいていました。「私もパニック買いに加わろうと思いましたが、自分の口座残高を見たとき、私にできたのは、その前半部分だけでした……パニック!」
私たちはまた、さまざまな方法で教会を続けなればなりません。私たちの教会堂は、次の通告があるまでは、閉鎖されています。牧師たちはいつの間にか、会衆の代わりに、カメラに向かって説教しています。まさに前代未聞です。
使徒パウロの態度
この未曾有の事態を思うときに、私の心はフィリピの信徒への手紙2章に引きつけられました。
フィリピの信徒への手紙を通じて見られるパウロの態度は、喜びに起因するものであり、それには感染力があります。フィリピの信徒への手紙をじっくり読めば、きっと、あなたもパウロの喜びに感染したことに気づくはずです。彼は、イエス・キリストと出会い、それが彼の人生に劇的な変化をもたらしました。
2章の最初の言葉は、「そこで」です。それは、パウロが、そう書くに至った背景を探し出すようにとの合図です。しかしながら、「そこで」の直前である1章を見ると、そこには理想とはあまりにかけ離れた状況が横たわっています。
・彼は、牢獄に鎖で繋がれています。
・彼の働きは、敵対者たちから攻撃されています。
・彼は、歳をとり、弱っています。
・教会は、迫害を受けています。
それにもかかわらず、彼は、自らの置かれている状況を不安に思うことなく、彼の身にふりかかろうとしていることにも、全く恐れがありません。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(1章21節)。彼は、仲間の指導者たちを励まして言います。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(4章4節)。彼は、人知を超える神の平和を持っていたのです(4章7節)。
パウロは、2章直前の文脈で、次のように述べています。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(1章27節)
「ひたすら」です! たとえ、それが未曾有の事態でもです。いえ、むしろ未曾有の事態にこそ、そうすべきなのです。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」
フィリピの信徒への手紙2章で、パウロは、「一つ」、「愛」、「慈しみ」、「憐れみ」などの言葉を用いながら、同じことをさらに詳しく説明します。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(2章3、4節)。
初期のクリスチャンたちは、パウロの言うことを真剣に受け取った。
パウロは、このことに真剣に取り組んだので、彼に続くクリスチャンたちも同じようにしました。
- 現在の状況は未曾有の事態ですが、歴史的に見れば、他にもパンデミックは起こりました。私たちは、キリストの弟子たちが、このようなときに何をしたかを知っています。ライマン・ストーン(注1)は次のことを、私たちに気づかせてくれます。
- 歴史家たちは、2世紀のアントニヌスの疫病が、キリスト教の伝播に貢献したと考えています。この疫病で、ローマ帝国の人工の4分の1が命を落としました。その中にあっても、クリスチャンは看病にあたりました。
- 同様のことは、キプリアヌスの疫病として知られる、3世紀の感染大流行にも言えます。名称の由来となった司教キプリアヌスは、クリスチャンたちが、「疫病の犠牲となった人(クリスチャン)のため悲しむのではなく(彼は間違って、信者がすでに昇天していると信じていたので)、生きている人々への尽力を倍増させるよう」教えました。
- キプリアヌスの同僚、司教ディオニュソスは、クリスチャンたちが「危険を顧みずに……病人を看病し、病人のあらゆる必要に応えた」と記しています。
- その1世紀後、異教ローマの皇帝ユリアヌスは、「ガリラヤ人ども」(イエスの弟子たち)が、非キリスト教徒でさえも看病したことに、苦言を呈しました。
- また、社会学者、宗教人口統計学者であるロドニー・スタークは、クリスチャン共同体のある都市の死亡率は、そうでない都市の半分以下であったと断言しています(Lyman Stone, “Christianity Has Been Handling Epidemics for 2000 Years,” FP, March 13, 2020からの要約)。
私たちにはまだ役割がある
キリストの弟子たちは、たとえ命を失うことになろうとも、他の人々を助けるためには、喜んで何でもしました。クリスチャンは、ペストの最中、衛生的な場所での治療を提供する、ヨーロッパで初めての病院を設立しました。他者を思いやることは、病気の拡大を防ぐために、できることを何でもすることを意味します。
現在、私たちの世界には、病院、医療スタッフ、隔離病棟が存在しますが、私たちの行動がウイルスの蔓延の引き金にならないことは重要です。それこそ、私たちが、強制される前に教会堂を閉鎖し、衛生環境や社会的距離拡大を強調している理由です。しかし同時に、他の人々に気を配り、愛し、他者を最優先にすることも欠かせません。それこそ、パウロの「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」という教えに従うことです。
では、その動機はどこから来るのでしょうか。フィリピの信徒への手紙の中で、パウロは次のような招きをしています。同じ思いを持って「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(2章5~8節)。
これこそ前代未聞の行いです!
イエス・キリストは、自分自身を全く顧みず、罪のウイルスが地上で制御不能になっていると知りつつ、神のみ子としての天の玉座を捨てて、人として、この罪の支配下にあるこの世界に来られ、しもべの身分にへりくだり、私たちのために十字架へと進んで行かれました。
イエスは、自己愛ではなく、犠牲的精神を抱きました。私たちはクリスチャンとして、イエスが私たちにしてくださったように、困っている隣人に向かって前進するのであって、後退するのではありません。
それは、互いに気を配り合うことです。それは、2人の買い物客が、トイレットペーパーの最後の1パックを前に鉢合わせるようなものです。一方が、パックを一緒に購入して分け合うことを提案すれば、もう一方は涙をこぼし、抱き合うことによって、社会的距離のルールを超越するでしょう。あるいは、スーパーマーケットの店主が、必要な人には誰にでも、トイレットペーパーを分け与えるような行為かもしれません。
今こそ、利己心ではなく、犠牲的精神を抱くときです。イエスが前代未聞の愛を示されたように、私たちは、この未曾有の事態の中で、前代未聞の愛を互いに示すよう召されているのです。
本記事の原文は、アドベンチスト・レコードによって投稿されたものです。
(注1)Lyman Stone:アメリカン・エンタープライズ公共政策研究所、Institute of Family Researchの主任研究員。アメリカ合衆国農務省の、前国際経済学者。The New York Times、The Washington Post、The Wall Street Journalへの寄稿者。
*本稿は、『Adventist Review』に2020年4月3日に掲載された‘Managing Anger in the Midst of COVID-19――In your anger [and self-isolation] do not sin.’の抄訳です。