セブンスデー・アドベンチスト教会

【2015年7月世界総会本会議承認版】

 セブンスデー・アドベンチストは聖書を唯一の信条として受け入れ、一定の基本的な信仰大要を聖書の教えとして堅持している。ここに公にされている「信仰の大要」は、教会が理解し、表現した聖書の教えである。この声明の改訂は、教会が聖霊の導きによって、聖書の真理に対するより豊かな理解と、神の聖なる言葉に対するより適切な表現とに達したとき、世界総会本会議によってなされ得るものである。

1.神の言葉

 旧新約聖書は書かれた神の言葉、神の霊感によって与えられた言葉である。霊感を受けた著者が、聖霊に動かされるままに語り、また書いた。この言葉を通して、神は救いに必要な知識を人間に与えられた。聖書は、最高の啓示、権威ある啓示、神のみ心の誤りのない啓示である。聖書は品性の標準を示し、人間の経験を吟味し、明確に教理を啓示する。聖書は歴史における神のみわざについての信頼できる記録である。

(詩編119:105、箴言30:5、6、イザヤ8:20、ヨハネ17:17、Ⅰテサロニケ2:13、Ⅱテモテ3:16、17、ヘブライ4:12、Ⅱペトロ1:20、21)

2.三位一体

 父と子と聖霊の、永遠に共存する3つの位格から成るひとりの神がおられる。神は朽ちることなく、全知全能で、すべてのものを超え、常に変わることなく存在される。神は人間の理解を超える無限のお方であるにもかかわらず、ご自身を啓示されることによって、人間に知られるお方である。愛であられる神は、すべての造られたものの礼拝と尊崇と奉仕を永遠に受けるにふさわしいお方である。

(創世記1:26、申命記6:4、イザヤ6:8、マタイ28:19、ヨハネ3:16、Ⅱコリント1:21、22、13:13、エフェソ4:4~6、Ⅰペトロ1:2)

3.父なる神

 父なる神はすべてのものの創造者であって、すべて造られたものの源であるとともに、それらを保ち、支配されるお方である。父なる神は正しく聖なる方、あわれみと恵みに富み、怒ること遅く、変わらない愛と真実に満ちあふれているお方である。み子と聖霊に見られる性質と力も、父なる神のものである。

(創世記1:1、申命記4:35、詩編110:1、4、ヨハネ3:16、14:9、Ⅰコリント15:28、Ⅰテモテ1:17、Ⅰヨハネ4:8、黙示録4:11)

4.子なる神

 子なる神は人間の肉の姿を取ってイエス・キリストとなられた。万物はみ子を通して創造された。また、み子を通して神のご性質が明らかにされ、人間の救いが全うされ、世界は裁かれる。永遠からまことの神であられたみ子は、救い主イエスとしてまことの人間になられた。み子は聖霊によってみごもられ、処女マリアよりお生まれになった。み子は人間として生き、試みにあわれたが、神の義と愛を完全にあらわされた。奇跡によってみ子は神の力をあらわし、ご自身が神の約束の救い主であることを証明された。み子はわれわれの罪のために、われわれの身代わりとなって苦しみを受け、自ら十字架にかかり、死者の中から復活し、われわれのために天の聖所で奉仕するために天に昇られた。み子はご自分の民を最終的に救い出し、すべてのものを回復するために、栄光のうちに再び来臨される。

(イザヤ53:4~6、ダニエル9:25~27、ルカ1:35、ヨハネ1:1~3、14、5:22、10:30、14:1~3、9、13、ローマ6:23、Ⅰコリント15:3、4、Ⅱコリント3:18、5:17~19、フィリピ2:5~11、コロサイ1:15~19、ヘブライ2:9~18、8:1、2)

5.聖霊なる神

 聖霊なる神は創造と受肉と贖いのみわざにおいて、父なる神、子なる神とともに働かれた。聖霊は、父なる神、子なる神と同様に1つの位格であられる。聖霊は聖書記者たちに霊感を与えられた。聖霊はキリストの生涯を力で満たされた。聖霊は人間を引き寄せ、その罪を指摘される。そして、それに応答する者を生まれ変わらせ、神のかたちへと変えられる。聖霊は父と子からつかわされて常に神の子らとともにあり、教会に霊の賜物を与え、キリストをあかしするように教会を力づけ、聖書に従って教会をあらゆる真理へと導かれる。

(創世記1:1、2、サムエル記下23:2、詩編51:11、イザヤ61:1、ルカ1:35、4:18、ヨハネ14:16~18、26、15:26、16:7~13、使徒言行録1:8、5:3、10:38、ローマ5:5、Ⅰコリント12:7~11、Ⅱコリント3:18、Ⅱペトロ1:21)

6.創造

 神は、創造のみわざに関する確かで歴史的な記録を聖書の中に啓示された。主は宇宙を創造し、現在の6日の間に「天地万物」を造り、第7日に休まれた。こうして神は、文字どおり6日間で成し終えた創造のみわざに絶えず心を向ける記念として、安息日を制定された。その6日間とは、われわれが現在、安息日とともに1週間と呼ぶものと同じ期間である。最初の男と女は、創造の冠として神のかたちに造られた。彼らには世界を治める主権が与えられ、世界を保護する責任が課せられた。世界が完成したとき、それは神の栄光をあらわしていて、「極めて良かった」。

(創世記1章、2章、5章、11章、出エジプト記20:8~11、詩編19:2~7、33:6、9、104、イザヤ45:12、18、使徒言行録17:24、コロサイ1:16、へブライ1:2、11:3、黙示録10:6、14:7)

7.人間の本性

 人間は、個性を備え、思考し、行動する力と自由を持つ神のかたちに造られた。人間は自由な存在として造られたが、肉体と精神と魂の分けることのできない統一体であって、いのちと呼吸とその他すべてを神に依存している。アダムとエバが神に従わなかったとき、彼らは神に頼ることを拒み、高い地位から転落してしまった。彼らのうちにある神のかたちは傷つけられ、彼らは死ぬべきものとなった。子孫たちはこの堕落した性質とその結果を受け継いだ。彼らは弱さと悪への傾向を持って生まれる。しかし神は、キリストにおいて世をご自分と和解させ、聖霊によって悔い改めた者のうちに造り主のみかたちを回復させられる。人間は神の栄光のために造られ、神と人を愛し、その周囲のものを管理するように召されている。

(創世記1:26~28、2:7、15、3章、詩編8:5~9、51:7、12、58:4、エレミヤ17:9、使徒言行録17:24~28、ローマ5:12~17、Ⅱコリント5:19、20、エフェソ2:3、Ⅰテサロニケ5:23、Ⅰヨハネ3:4、4:7、8、11、20)

8.大いなる戦い

 すべての人間はキリストとサタンの大いなる戦いに巻き込まれている。それは神の品性と律法および宇宙に対する主権をめぐる戦いである。この戦いは天において、選択の自由を与えられて造られた存在が、自らを高くすることによって神の敵サタンとなり、一部の天使たちを反逆へと誘い出したときに始まった。サタンはアダムとエバに罪を犯させ、世界に反逆の精神をもたらした。この人間の罪は、人間のうちにある神のかたちをゆがめ、造られた世界の秩序を乱した。そしてついには、創世記1章から11章の歴史的記録の中に記されているように、地球規模の洪水が起こり、荒廃状態を生じさせることになった。世界は、造られたものすべてが注目する宇宙的な戦いの舞台となった。この戦いを通して、神は愛であることが究極的に擁護される。キリストはこの戦いの中にあるご自分の民のために、聖霊と忠実な天使をつかわし、救いの道を歩む彼らを導き、守り、支えられる。

(創世記3章、6~8章、ヨブ1:6~12、イザヤ14:12~14、エゼキエル28:12~18、ローマ1:19~32、3:4、5:12~21、8:19~22、Ⅰコリント4:9、ヘブライ1:14、Ⅰペトロ5:8、Ⅱペトロ3:6、黙示録12:4~9)

9.キリストの生涯と死と復活

 神は、神のみ心に完全に従ったキリストの生涯とその苦難、死、復活を通して、人間の罪を贖う唯一の方法を提供された。それは、信仰によって贖いを受け入れる者が永遠のいのちを受け、すべての造られたものが創造主の無限の聖なる愛をよりよく理解するようになるためである。この完全な贖いは、神の律法が義であり、神の品性が恵み深いことを擁護する。神の義と恵みは、われわれを罪に定めるとともに、われわれに赦しをもたらすからである。キリストの死は身代わりの死であって、われわれに贖いと和解と変革をもたらす。見える形でのキリストの復活は、悪の力に対する神の勝利を宣言し、贖いを受け入れた者には、罪と死に対する究極的な勝利を確信させる。復活は、イエス・キリストが主であることを示す。天と地にあるすべての者は、そのみ前にひれ伏す。

(創世記3:15、詩編22:2、イザヤ53章、ヨハネ3:16、14:30、ローマ1:4、3:25、4:25、8:3、4、Ⅰコリント15:3、4、20~22、Ⅱコリント5:14、15、19~21、フィリピ2:6~11、コロサイ2:15、Ⅰペトロ2:21、22、Ⅰヨハネ2:2、4:10)

10.救いの体験

 神は限りない愛とあわれみをもって、罪を知らないキリストをわれわれのために罪とされた。それは、われわれがキリストにあって神の義とされるためである。われわれは聖霊に導かれて自らの必要を悟り、自らの罪深さを認め、イエスに対する信仰を働かせる。イエスは救い主であり、主であるとともに、われわれの代理にして模範である。この救いの信仰は、神の恵みの賜物であって、神の言葉の力を通して来る。キリストを通して、われわれは義とされ、神の息子、娘とされ、罪の支配から救われる。聖霊によって、われわれは生まれ変わり、清められる。聖霊はわれわれの心を新たにし、神の律法を心に書きつける。このようにして、われわれには聖なる生活をする力が与えられる。われわれは神のうちにあって、神の性質にあずかる者となり、現在も将来の裁きの時も救われることを確信している。

(創世記3:15、イザヤ45:22、53章、エレミヤ31:31~34、エゼキエル33:11、36:25~27、ハバクク2:4、マルコ9:23、24、ヨハネ3:3~8、16、16:8、ローマ3:21~26、5:6~10、8:1~4、14~17、10:17、12:2、Ⅱコリント5:17~21、ガラテヤ1:4、3:13、14、26、4:4~7、エフェソ2:4~10、コロサイ1:13、14、テトス3:3~7、ヘブライ8:7~12、Ⅰペトロ1:23、2:21、22、Ⅱペトロ1:3、4、黙示録13:8)

11.キリストにある成長

 キリストは十字架上の死によって悪の力に勝利された。地上での宣教の働きにおいて悪霊を追い出し、制圧されたお方は、悪の力を打ち破り、悪のたどる究極の運命がどのようなものであるかを明示なさったのである。イエスはご自身が勝利することによって、われわれにも同じ勝利を与えてくださる。もしわれわれがイエスの愛による平安、喜び、確信に満たされて、主とともに歩むならば、われわれを何とかして降参させ、支配しようと必死に戦いを挑んでくる悪の勢力にも打ち勝つことができるのである。そして、聖霊がわれわれのうちに住み、力を与えてくださる。われわれの救い主なるイエスに絶えず献身し、イエスを信頼し続けるとき、われわれは過去の行為の重荷から解放される。もはやわれわれは暗黒の中にいるのでも、悪の勢力の恐怖や古き自分の無知やむなしさに捕らわれて生きているのでもない。イエス・キリストのうちにある、この新しい自由を与えられたわれわれは、イエスの品性に似た者となるべく、成長していくことが求められている。日ごとの祈りによるイエスとの交わり、神のみ言葉を霊の糧として霊性を養うこと、神のみ言葉とみ心の深き瞑想、賛美の歌をささげること、忠実な礼拝出席、また教会の諸活動、奉仕、伝道の働きへの積極的な参加――このようなことを通して、われわれはキリストにある成長の階段を昇ることができる。われわれはまた、人々の肉体的、精神的、社会的、情緒的、霊的必要に思いやりをもって応えることで、キリストの模範に従うようにも召されている。われわれが周りの人々への愛の奉仕に、また主の救いのあかしに献身するとき、主は聖霊を通して絶えずわれわれとともにご臨在くださり、すべての時間、すべてのなすわざを霊的な経験へと変えてくださるのである。

(歴代誌上29:11、詩編1:1、2、23:4、77:12、13、マタイ20:25~28、25:31~46、ルカ10:17~20、ヨハネ20:21、ローマ8:38、39、Ⅱコリント3:17、18、ガラテヤ5:22~25、エフェソ5:19、20、6:12~18、フィリピ3:7~14、コロサイ1:13、14、2:6、14、15、Ⅰテサロニケ5:16~18、23、ヘブライ10:25、ヤコブ1:27、Ⅱペトロ2:9、3:18、Ⅰヨハネ4:4)

12.教会

 教会はイエス・キリストを主として、また救い主として信じ、告白する者たちの共同体である。旧約時代の神の民と同じように、われわれは世から召し出されている。われわれはともに礼拝し、交わり、神の言葉を教え、主の晩餐を記念し、人類に仕え、世界的な福音宣教に参与する。教会の権威の源は、聖書に啓示されている受肉された神の言葉、キリストにある。教会は神によって神の子どもとされ、新しい契約に基づいて生きる者たちで構成される神の家族である。教会はキリストのからだであって、キリストご自身をかしらとする信仰の共同体である。教会はキリストの花嫁である。キリストは教会を清めるため、教会の身代わりとなっていのちをささげられた。勝利のうちに再臨されるとき、キリストは教会を、栄光の教会、各時代にわたる忠実な信徒、キリストの血によって買い取られた者、しみもしわもない者、責められるべきところのない聖なる者とされる。

(創世記12:1~3、出エジプト記19:3~7、マタイ16:13~20、18:18、28:19、20、使徒言行録2:38~42、7:38、Ⅰコリント1:2、エフェソ1:22、23、2:19~22、3:8~11、5:23~27、コロサイ1:17、18、Ⅰペトロ2:9)

13.残りの民とその使命

 普遍的な教会は、キリストを真に信じるすべての者から成る。しかし、背教がはびこる終わりの時代には、神の戒めを守り、イエスの信仰を持ち続ける残りの民が召し出される。この残りの民は、裁きの時が来たことを告げ、キリストによる救いを宣べ伝え、キリストの再臨が切迫していることを知らせる。この働きは、ヨハネの黙示録14章に記されている3天使によって象徴されている。そしてそれは、天における裁きのわざと並行してなされ、地上に悔い改めと改革の働きをもたらす。すべて信じる者は、この世界的なあかしの働きに個人的に加わるように召されている。

(ダニエル7:9~14、イザヤ1:9、11:11、エレミヤ23:3、ミカ2:12、Ⅱコリント5:10、Ⅰペトロ1:16~19、4:17、Ⅱペトロ3:10~14、ユダ3、14、黙示録12:17、14:6~12、18:1~4)

14.キリストのからだにおける一致

 教会は、あらゆる種族、言葉の違う民、民族、国民の中から召し出された多くの肢体を持つ1つのからだである。われわれはキリストにあって新しく造られたものである。それゆえ、人種、教育、国籍の区別や、階級、貧富の差や性の違いは、われわれの間に不和を生じさせるものであってはならない。すべての者はキリストにあって平等である。そのキリストは1つのみ霊によって、われわれを主との交わりと仲間との交わりに結び入れられた。それゆえ、われわれは偏見や分派心をいだかずに、互いに仕え合うべきである。聖書におけるイエス・キリストの啓示を通して、われわれは同じ信仰と希望にあずかり、同じ宣教の働きに加わってすべての人々に福音を宣べ伝える。この一致の源は、われわれをその子としてくださった三位一体の神の1つなるご性質にある。

(詩編133:1、マタイ28:19、20、ヨハネ17:20~23、使徒言行録17:26、27、ローマ12:4、5、Ⅰコリント12:12~14、Ⅱコリント5:16、17、ガラテヤ3:27~29、エフェソ2:13~16、4:3~6、11~16、コロサイ3:10~15)

15.バプテスマ

 バプテスマによって、われわれはイエス・キリストの死と復活を信じる信仰を言いあらわし、罪に死に、新しいいのちに生きる決意を表明する。このようにしてわれわれは、キリストが主であり、救い主であることを認め、神の民となり、教会によってその会員として受け入れられる。バプテスマは、キリストと1つとなり、罪が赦され、聖霊を受けたしるしである。バプテスマは沈めの形式により、イエスへの信仰と罪の悔い改めを条件にほどこされる。バプテスマは、聖書研究を受け、聖書の教えを受け入れた者にほどこされる。

(マタイ28:19、20、使徒言行録2:38、16:30~33、22:16、ローマ6:1~6、ガラテヤ3:27、コロサイ2:12、13)

16.聖餐式

 聖餐式は、主であり、救い主であられるイエス・キリストを信じる信仰の表明として、イエスのからだと血の象徴にあずかることである。この交わりの中にキリストは臨在され、ご自分の民と会い、彼らを力づけられる。この礼典においてわれわれは、主が再び来られるときに至るまで、喜びをもって主の死を告げ知らせる。聖餐式にあずかるため、自己を吟味し、罪の悔い改めと告白をしなければならない。主はまた洗足式を定められた。それは新たな清めを象徴し、キリストが示された謙虚さをもって喜んで互いに仕え合う気持ちをあらわし、愛にあってわれわれの心を1つにするものである。聖餐式は信仰を表明するすべてのクリスチャンに開かれている。

(マタイ26:17~30、ヨハネ6:48~63、13:1~17、Ⅰコリント10:16、17、11:23~30、黙示録3:20)

17.霊の賜物と奉仕

 神はどの時代にも、神の教会の会員すべてに霊の賜物を与えておられる。それは教会と人類共通の利益のために、愛の奉仕において用いられるべきものである。聖霊は教会員それぞれに、み旨のままに賜物を分け与えられる。聖霊によるこの霊の賜物は、教会が神から託された役割を果たすために必要なあらゆる能力と働きをもたらす。聖書によれば、これらの賜物には、信仰、いやし、預言、宣教、教え、行政、調停、同情、自己犠牲的奉仕、援助と慈善、民の励ましなどがある。教会員のある者は神に召され、霊による能力が与えられて、牧会、伝道、教育といった、教会によって承認された働きに奉仕する。これらの働きは、教会員を整えて奉仕に向かわせ、教会を強めて霊的成熟へと導き、神への信頼と神を知る知識の一致を育成するために特に必要とされる働きである。教会員がこれらの賜物を働かせて、神から与えられるさまざまな恵みを忠実に管理するとき、教会は偽りの教理の破壊的な影響から守られ、神にあって成長を続け、愛と信仰において堅固なものとなる。

(使徒言行録6:1~7、ローマ12:4~8、Ⅰコリント12:7~11、27、28、エフェソ4:8、11~16、Ⅰテモテ3:1~13、Ⅰペトロ4:10、11)

18.預言の賜物

 聖書は、預言が聖霊の賜物の1つであるとあかししている。この賜物は残りの教会を見分けるしるしであって、われわれは、それがエレン・G・ホワイトの奉仕にあらわれていたと信じる。彼女の著書は預言の権威をもって語り、教会を慰め、導き、教え、その過ちを正す。彼女の著書はまた、聖書がすべての教えと経験を審査する基準であることをも明らかにしている。

(民数記12:6、歴代誌下20:20、アモス3:7、ヨエル3:1、2、使徒言行録2:14~21、Ⅱテモテ3:16、17、ヘブライ1:1~3、黙示録12:17、19:10、22:8、9)

19.神の律法

 神の律法の大原則は十戒に具体化され、キリストの生涯に明らかとなっている。十戒は人間の行動と関係に対する神の愛とみ旨と目的をあらわしており、あらゆる時代のすべての人が守るべきものである。これらの戒めは神とその民との契約の基礎であり、神の裁きの基準である。聖霊の働きを通して十戒は罪を指摘し、救い主の必要を感じさせる。救いは行いによるのではなく、全く恵みによるのであって、戒めへの服従は救いの実である。この服従はクリスチャン品性を発達させ、幸福感をもたらす。それは主に対する愛と隣人への関心のあらわれである。信仰の従順はわれわれの生活を変えるキリストの力を示し、クリスチャンのあかしを力強いものとする。

(出エジプト記20:1~17、申命記28:1~14、詩編19:8~15、40:8、9、マタイ5:17~20、22:36~40、ヨハネ14:15、15:7~10、ローマ8:3、4、エフェソ2:8~10、ヘブライ8:8~10、Ⅰヨハネ2:3、5:3、黙示録12:17、14:12)

20.安息日

 恵み深い創造主は、6日にわたる創造のわざを終えて7日目に休まれ、創造の記念としてすべての人のために安息日を制定された。神の不変の律法の第4条は、この第7日安息日を休息と礼拝と奉仕の日として守るように求めている。それは、安息日の主であるイエスが教え、実践されたことと調和する。安息日は神と人との喜びにあふれた交わりの日である。安息日はキリストにおける贖いの象徴であるとともに、われわれにおける聖化と忠誠のしるしであり、神の国における永遠の世界の先取りでもある。安息日は神と民との間における永遠の契約の変わらぬしるしである。この聖なる時間を夕べから夕べまで、すなわち日没から日没まで喜びにあふれて守ることは、神の創造と贖いのみわざを祝うことである。

(創世記2:1~3、出エジプト記20:8~11、31:13~17、レビ記23:32、申命記5:12~15、イザヤ56:5、6、58:13、14、エゼキエル20:12、20、マタイ12:1~12、マルコ1:32、ルカ4:16、ヘブライ4:1~11)

21.管理者としての務め

 われわれは、時間や機会、才能や資産、地の恩恵や資源を神から委ねられた神の管理者である。われわれはそれらを正しく用いるように、神に対して責任を負っている。われわれは、一切の所有権が神にあることを認めて、神と隣人に対して忠実に仕えるとともに、福音の宣教と神の教会の維持発展のために什一や諸献金をささげる。管理者の務めは神から与えられた特権であって、それは愛を育成し、利己心と貪欲を克服する。管理者は、自分が忠実に働いた結果として人々にもたらされる祝福を喜ぶ。

(創世記1:26~28、2:15、歴代誌上29:14、ハガイ1:3~11、マラキ3:8~12、マタイ23:23、ローマ15:26、27、Ⅰコリント9:9~14、Ⅱコリント8:1~15、9:7)

22.クリスチャンの行動

 われわれは、私生活および社会生活のあらゆる面において、聖書の原則に調和して考え、感じ、行動する敬虔な民であるように召されている。われわれは、キリストに見られる純粋さと健康と喜びを生活の中に造り出すような事柄だけに関係する。それは、聖霊がわれわれのうちに主の品性を再創造してくださるためである。このことは、われわれが参加する娯楽や楽しみが、クリスチャンにふさわしい好みや美しさの最高の標準に合致していなければならないことを意味する。文化的な違いに留意しながらも、われわれの服装は単純で、清潔で、よく似合うものであるべきである。そこにあらわれる真の美しさは、外面の飾りによるのではなく、柔和でしとやかな霊という朽ちることのない飾りによる。それはまた、からだを賢明に大切にすべきであることを意味する。からだは聖霊の宮だからである。十分な運動をし、十分な休息を取るとともに、できる限りもっとも健康的な食物を摂り、聖書に示されている汚れた食物を絶つべきである。アルコール飲料やタバコ、また薬物や麻薬の無責任な使用はからだに有害であるので、これらをも避けるべきである。むしろ、思いとからだをキリストの訓練へと導くような事柄に携わるべきである。キリストは、われわれが健康で喜びにあふれ、誠実に生きることを願っておられる。

(創世記7:2、出エジプト記20:15、レビ記11:1~47、詩編106:3、ローマ12:1、2、Ⅰコリント6:19、20、10:31、Ⅱコリント6:14~7:1、10:5、エフェソ5:1~21、フィリピ2:4、4:8、Ⅰテモテ2:9、10、テトス2:11、12、Ⅰペトロ3:1~4、Ⅰヨハネ2:6、Ⅲヨハネ2)

23.結婚と家庭

 結婚はエデンにおいて神によって制定され、愛の交わりにおける男女の生涯にわたる結合として、イエスによって認められた。クリスチャンにとって結婚の契約は、伴侶に対すると同時に神に対するものであって、信仰を同じくする男女の間だけでなされるべきである。この関係を支えるものは、相互の愛と名誉と尊敬と責任である。そしてそれは、キリストと教会の間にある愛に満ちた清い関係、また親密で永続する関係の反映であるべきである。離婚についてイエスは、不品行以外の理由で離婚し、他の者と再婚することは姦淫の罪を犯すことであると教えられた。ある家族は理想に達していないかもしれないが、結婚を通してキリストにあって完全に委ね合った男女は、聖霊の指導と教会の交わりを通して愛の一致に達することができる。神は家庭を祝福し、家族が互いに助け合って、成熟した完全な家庭を目指していくように願っておられる。家族の親密さが増すことは、福音の最後の使命の特徴の1つである。両親は、子どもたちが主を愛し、主に従うように彼らを育てなければならない。両親は自分たちの行為と言葉を通して彼らに、キリストが愛情深く、優しく、思いやりに満ちた案内者であり、そのからだの一員、つまり独身者も既婚者も含む神の家族の一員に彼らがなることを望んでおられると教えなければならない。 

(創世記2:18~25、出エジプト記20:12、申命記6:5~9、箴言22:6、マラキ3:23、24、マタイ5:31、32、19:3~9、12、マルコ10:11、12、ヨハネ2:1~11、Ⅰコリント7:7、10、11、Ⅱコリント6:14、エフェソ5:21~33、6:1~4)

24.天の聖所におけるキリストの奉仕

 天には、人間ではなく、神が備えられた真の幕屋なる聖所がある。その中でキリストは、十字架上でただ一度だけささげられた贖罪の犠牲の恩恵が、信じる者たちに与えられるように奉仕しておられる。キリストは昇天してわれわれの大祭司となり、仲保の働きを開始された。その働きは地上の聖所における大祭司の働きによって象徴されていた。そして、2300日の預言期間が終了した1844年に、贖罪の働きの第二の、そして最後の段階に入られた。その働きは地上の至聖所における大祭司の働きによって象徴されていた。それは、すべての罪を最終的に処理する働きの一部となる調査審判の働きであって、古代イスラエルにおける「贖罪の日」の聖所の清めに予表されていた。この予型としての奉仕では、聖所は動物の犠牲の血で清められたが、天の聖所は完全な犠牲であるイエスの血によって清められる。調査審判は、死者のうち誰がキリストにあって眠っているのか、すなわち誰がキリストにあって最初の復活にあずかるにふさわしいかを天の住民に明らかにする。それはまた、生きている者のうち誰がキリストにあって神の戒めを守り、イエスの信仰を持ち続けているか、すなわち誰がキリストにあって永遠のみ国へたずさえ入れられる用意ができているかをも明らかにする。この裁きはイエスを信じる者を救うことで神の義を擁護する。それは、神に忠実であり続けた者がみ国を受けることを宣言する。キリストのこの働きが終わるとき、人間に与えられている再臨前の恩恵期間も終了する。

(レビ記16章、民数記14:34、エゼキエル4:6、ダニエル7:9~27、8:13、14、9:24~27、ヘブライ1:3、2:16、17、8:1~5、9:11~28、10:19~22、黙示録8:3~5、11:19、14:6、7、12、20:12、22:11、12)

25.キリストの再臨

 キリストの再臨は祝福に満ちた教会の望みであり、福音の壮大な頂点である。救い主は、文字どおり、からだを持って世界中の人々の目に見える姿で来臨される。キリストが来臨されるとき、死んでいる義人はよみがえらされ、生きている義人とともに栄化され、天に上げられる。しかし、不義なる者たちは死ぬ。預言がほぼ完全に成就してきたことは、現在の世界の状況とあいまってキリストの来臨が近いことを示している。この出来事がいつ起こるかは、明らかにされていない。それゆえ、われわれは常に用意をしているように勧められている。

(マタイ24章、マルコ13章、ルカ21章、ヨハネ14:1~3、使徒言行録1:9~11、Ⅰコリント15:51~54、Ⅰテサロニケ4:13~18、5:1~6、Ⅱテサロニケ1:7~10、2:8、Ⅱテモテ3:1~5、テトス2:13、ヘブライ9:28、黙示録1:7、14:14~20、19:11~21)

26.死と復活

 罪の支払う報酬は死である。しかし、神はただひとり不死であり、贖われた者に永遠のいのちをお与えになる。その日まで、すべての人にとって死は無意識の状態である。われわれのいのちであるキリストが来られるとき、よみがえらされた義人と生きている義人とは栄化され、引き上げられて主に会う。第2の復活は不義なる者たちの復活であって、1000年ののちに起こる。

(ヨブ19:25~27、詩編146:3、4、コヘレト9:5、6、10、ダニエル12:2、13、イザヤ25:8、ヨハネ5:28、29、11:11~14、ローマ6:23、Ⅰコリント15:51~54、コロサイ3:4、Ⅰテサロニケ4:13~17、Ⅰテモテ6:15、16、黙示録20:1~10)

27.千年期と罪の終わり

 千年期とは、第一の復活と第二の復活の間にはさまれた、1000年にわたるキリストと聖徒たちの天における支配のことである。この間、死んだ悪人が裁かれ、地は生きている住人もなく、サタンとその使いたちに占領されて全く荒廃する。この期間の終わりに、キリストは聖徒を伴い、聖なる都とともに天から地に降りて来られる。そののち、死んでいる不義なる者たちがよみがえらされ、サタンとその使いたちとともに聖なる都を包囲する。しかし、神から出る火は彼らを焼き尽くし、地を清める。こうして、宇宙は永遠に罪と罪人から解放される。

(エレミヤ4:23~26、エゼキエル28:18、19、マラキ3:19、Ⅰコリント6:2、3、黙示録20章、21:1~5)

28.新しい地

 神は贖われた者たちのために、永遠のすまいと、永遠のいのちと愛と喜びを与えてくれる完全な環境と、神のみ前での学びを、義の支配する新しい地に用意してくださる。そこには神ご自身が民とともに住まわれ、苦しみや死は過ぎ去っている。大いなる戦いは終わり、罪はもはや存在しない。いのちあるものもそうでないものもすべては、神が愛であると告げる。神はとこしえに統べ治められる。アーメン。

(イザヤ35章、65:17~25、マタイ5:5、Ⅱペトロ3:13、黙示録11:15、21:1~7、22:1~5)

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