セブンスデー・アドベンチスト教会

SDGsと再臨信仰

SDGsと再臨信仰

「サステナブル」という言葉を、最近よく耳にします。これは、2015年の国連サミットで採択された「持続可能な開発目標」(SDGs)に使われている言葉で、貧困、格差、地球温暖化など、人類が直面しているさまざまな問題を、国際社会全体で団結し、乗り越えていこうという気運を表しています。気候変動をはじめ、これ以上目を背け続けることが許されないほど差し迫った終末的な危機に対して、人間の叡智と努力によって、この世界をなんとか持続(サステイン)させていくという一つの応え方がここにあります。

アドベンチストの終末論とSDGs

アドベンチストの終末観は、SDGsに表される精神性と比べてみると、一見かなり悲観的に見えます。聖書は、人の知恵と努力によって終末の危機を乗り越えるようにとは呼びかけていません。この世界が抱えている諸問題と、その根源にある人間の普遍的罪悪の問題について、極めて深刻にとらえているからです。各国の首脳による談議がどれほど繰り返されたとしても、大企業や研究者たちによってどれほど画期的な技術革新がもたらされたとしても、人類が自らの手によって滅びの定めを覆すことはできないと、聖書は厳粛に告げているのです。

再臨のメッセージは、現代人にとって決して受けがいいものではありません。再臨を信じるということはすなわち、私たちが人間的な努力にかけている望みを一切放棄するよう求められることだからです。

もちろん、この世界をよくしていくための努力に反対しているのではありません。クリスチャンはこの世で生きる間、隣人を助け、周囲の世界にとって益となるような働きを熱心に続けるべきです。しかしそれは、愛の戒めに従うというキリストに対する倫理的務めの中で行うべきであって、人間の力に最終的な望みを置いているからではありません。

この世界に必要なのは、持続ではなく再創造です。傷ついた世界を救うのは、人の努力ではなく、神の贖いです。SDGsの取り組み自体が悪であるとは言いません。そこで掲げられている目標には、例えば自然環境をできるだけ損なわずに守ることなど、クリスチャンが積極的に支持し関与するべき原則も含まれています。

ただし、アドベンチスト教会に委ねられている再臨のメッセージは、自己信頼を捨てて神の御業を待ち望むよう人々に呼びかけるという点において、この世の潮流や精神性に真っ向から逆らう側面があるということを、私たちは理解しておく必要があります。

世界が求める福音

「今日の仕事は、楽しみですか。」

通勤時間帯の品川駅でスクリーンに映し出されたこの広告の言葉が大変な批判を呼び、即日取り下げられたというニュースが昨年話題になりました。「仕事がつらい人の気持ちをまるでわかっていない」「自死を迷っている人に『最後の一押し』をする表現だ」などと憤慨する声がSNSで一斉に挙がり、広告元の企業が謝罪する事態にまで発展したのです。

この騒動には、今、日本人の多くが抱えている閉塞感や失望感がまざまざと示されているように感じます。コロナ禍で加速した経済的不安は、日本にも暗澹とした空気をもたらしました。すさんだ心を引きずりながらやっとのこと生きている人たちの行き場のない叫びが、このような批判として噴出したのかもしれません。ほとんどの人にとって、この世の生は無邪気に「楽しみ」と言えるものではありません。誰もが今ある苦境から早く抜け出し、より良い生活が訪れることを望んでいるのです。

SDGsと再臨信仰は、人々が待ち望むより良い世界がどのようにして実現するのかという問いに対して、全く異なる二つのメッセージを象徴的に与えています。この世の福音は、政治的・経済的な動機に訴えて全世界の権威と力を結集させることで、より良い世界を実現しようとします。大勢の人々がそのメッセージに魅力を感じるでしょう。

「人類共通の危機に立ち向かうため、世界は今こそ分断を乗り越えて、統一的な枠組みのもとで一つとなるべきです。そうすれば我々はいかなる困難をも乗り越えていくことができます」と、その福音は約束します。人間的な誇りや自己愛を刺激する言葉によって人心を掌握し、誰も「肩を並べること」も「戦うこと」もできないような力を我々は持っているのだから、神の裁きすら恐れる必要はないのだと豪語します(ヨハネの黙示録13章4節、18章7節参照)。

再臨信仰に表された福音

それでは、再臨信仰に表された福音とはなんでしょう。神は、私たちが待ち望む世界は、「武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって」実現すると言われます(ゼカリヤ書4章6節)。罪は、この世が経験するあらゆる危機をもたらした根本原因です。人類は今、産業革命以降、自らの貪欲を満たすために続けてきた破壊的な資源搾取のツケを払おうと必死にもがいています。しかし、高尚に見えるその努力すら、政治的・経済的に優位に立とうと競い合う人間の罪深い性質から自由なのではありません。人の権威は、罪によって生じる私利私欲の問題を乗り越える力を持たないので、根本的な救いを世界にもたらすことはできないのです。

主は終わりの日に、火と硫黄によってこの世界を罪の痕跡から完全に清められます。私たちはただ、創造主の御前にへりくだり、終わりの時に約束された神の御業を信頼して待ち、自分自身を委ねるよう求められています。それは魂の救いにおいても同じです。反逆した世界と罪人の魂を贖うために命を捧げられた主の愛に心砕かれ、自分の業をやめ、身を低くして主の救いを待ち望む信仰者にとって、再臨は良い知らせです。「その日には、人間の高ぶる目は低くされ/傲慢な者は卑しめられ/主はただひとり、高く上げられる」(イザヤ書2章11節)。

*聖句は©️日本聖書協会

山地 悟/やまじ さとる

三育学院短期大学を卒業後、米国サザンアドベンチスト大学へ留学。帰国後、東京神学大学大学院にて修士号(新約聖書学)を取得した後、那覇・浦添教会牧師を経て、現在、三育袖ヶ浦教会牧師、三育学院カレッジ神学科非常勤講師。

アドベンチスト・ライフ2022年1月号