スチュワードシップ部

励まされる什一

~ある片田舎の集会所の証~

私の所属している集会所は礼拝出席三名~七名の小さな群れです。私は四年前から、会計のご奉仕をさせていただいています。

この集会所にAさんという男性がいます。Aさんは、お仕事の都合で何十年も礼拝を欠席されていましたが、その間ずっと什一をお返ししていました。

高齢化で亡くなる信徒もおり、年々減っていく信徒と、什一献金。正直、会計係としては心細くなります。そんな中で、Aさんはじめ礼拝出席者の忠実な献金は、私の心を支えてくれていました。

どんなに小さな群れでも、忠実な信徒がいる。このことは私にとって大きな励ましでした。
昨年のクリスマス礼拝の時に、「管理者としての私の証」のチラシを見て、私は何十年も礼拝出席が出来なくても、忠実に什一をお返ししているAさんのことを書きたいと思い、Aさんに声を掛けました。

するとAさんは、平然とこう言いました。
「僕なんて大したことないよ。もっとすごい奴がいるんだ。広島三育中学の時、B君は、夏休みに土方のバイトをして、十三万円のアルバイト代の十分の一、一万3千円を献金したんだ。中学生がだよ!『こいつにはかなわない!』と思ったよ。」

什一献金は神への信仰の応答です。四十年前、中学生だったB君が素直に聖書の教えに従ったことがAさんに感化を与えました。そして時を超えて、Aさんの忠実な什一を通して私には信仰の励ましを与えてくれました。

年が明けて、令和七年一月十一日の安息日礼拝の後のことです。

Ⅽさんが、「これを什一として捧げます。でも、私は教会員でないので、自由にお使いください。雨漏りの修繕とか色々要るでしょう。」と献金をもってこられました。
Ⅽさんは、あるご事情で、ご自分で決心され、数十年ほど教会組織を離れていました。しかし、信仰は持ち続けておられ、一年前から礼拝出席をされています。
私は、突然のことに驚きました。夢を見ているようでした。

神様は、全てをご存じで憐れみ深いお方です。忠実な民を主が引き寄せておられました。片田舎の小さな群れを、主は忠実な什一を通して顧みてくださっています。
主の御名を心から賛美いたします。

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公文のお稽古を通して

私の息子は障害を持っているのですが、小学生になり何か習い事をさせたいと思うようになりました。特に知的に遅れがあるので、公文式に行かせたいと強く思うようになりました。今までも行かせたいと思いましたが機会がなく、今がその時なのではないかと思い友人達にも祈ってもらいました。そして、行動してみて御心なら道が開かれるのではと思い、障害児でも通える公文がないかと問い合わせたら、近くにある30年以上やっている教室で受け入れてくださると言っていただきそこに行くようになりました。公文では国語、算数、英語とあり、普通でしたら国語と算数だけで良いと思いますが、息子はハーフで将来住む国もどこか分からないので3科目やらせることが必要だと感じました。公文は1科目いくらと決まっていて、3科目やらせると私にとってはかなりの負担です。

うちは家庭の事情で、私が生活や教育に使えるお金が十分に無くて悩みがあります。いざ毎月の支払いとなるとかなりの負担になることを実感し、続けて行くことに自信がなくなりました。それで、こんな経済で公文のお稽古なんて贅沢なのではないか、1科目減らしても良いのではないかと考えて、療育の先生や信仰の友に相談をしたのですが、みんなそれぞれくれるアドバイスはバラバラでこれは人に頼ってはダメだと思い、真剣に祈りました。その時に、ある友人の言葉を思い出しました。その友人は長老に将来の計画を相談したところ、最後に「本当の御心は聖書を通して示される。」との言葉をもらったと。そこで、神様にどうぞ聖書を通して御心を示してくださいと祈り聖書を開きました。そうしたら、私は開いたそのページに目が釘付けになりました。

「私の宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えていきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。….あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。…こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。」マラキ3:10−12

この、什一献金で有名な聖句を神様が選び出し、私の開いた聖書の箇所で示してくださいました。この聖句は何十回と聞いたり開いたりしていましたが、今や神様が示してくださり生きた言葉となり、生きた神様がくださった答えだと分かり、感謝して涙が出ました。それでもう迷う必要はなくなり3教科続ける決心ができ、今でもできています。私はただ自分の役割を果たし、什一を神様にお返ししたらあとは神様が全て経済を支えてくださるのです。本当に素晴らしい約束です。このような素晴らしい神様をもっと伝えたいと思い、今は什一だけでなく、他の献金もできないか祈っています。

T.Y

 

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管理者としての私の証

私たち家族は、これまでにたくさんの犬や猫を飼ってきました。それらの動物たちはペットショップで購入したのではなく、捨てられていたり迷子になっていた子たちばかりです。彼らが新しい家と愛情を求めているのを見て、私たちはその子たちを家族の一員として迎え入れることに決めました。それからというもの、彼らは私たちの生活をより豊かで温かいものにしてくれました。

聖書には「与えなさい、そうすればあなたにも与えられるでしょう」(ルカ6:38)とあります。この言葉の意味は、他の人に優しさを与えることで、その優しさがいつか自分に良い形で返ってくるということです。この教えを心に留めて、私はいつも犬や猫のご飯をバッグに入れて持ち歩いています。それは、道で困っている野良犬や野良猫に出会ったとき、すぐに食べ物を与えられるようにするためです。空腹で苦しんでいる姿を見ると、少しでも力になりたいと思うからです。この行動は、他者に対する優しさを示し、愛を分かち合う一つの方法だと考えています。

また、聖書には「正しい人はその家畜に心を配る」(箴言12:10)とも書かれています。これは、動物に対しても思いやりを持って接することが正しい行いであることを教えています。私たちにとって、動物たちは単なるペットではなく、私たちが責任を持って守り、愛するべき大切な命です。どんなに小さな命でも、その価値を尊重し、大切にすることが必要だと感じています。

これまでに迎え入れた犬や猫たちは、みんなそれぞれ違う個性を持っていました。とても活発で遊び好きな子もいれば、最初は警戒心を持っていた子もいましたが、時間をかけて信頼を築くことで心を開いてくれました。時には病気で苦しむこともありましたが、私たちは最後の瞬間まで彼らに寄り添いました。苦しんでいるときこそそばにいることが、本当の愛であり、命を大切にする行動だと信じています。

聖書には「森のすべての動物は神のものであり、野にいるすべての生き物も神のものです」(詩篇50:10-11)とあります。この教えが示すように、神様はすべての生き物を愛し、大切にしています。私たちも同じように、動物を愛し、尊重し続けたいと思っています。動物たちと過ごす中で、私は無償の愛や純粋な信頼の大切さを学びました。彼らと過ごした時間は短いかもしれませんが、その一瞬一瞬が大切で、かけがえのない思い出です。

これからも私たちは、動物たちに対して愛情と尊敬を持って接し続け、彼らから学んだ優しさと思いやりを周りの人々にも広げていきたいと考えています。すべての命が尊重され、みんなが幸せに暮らせる社会を目指し、小さな優しさを積み重ねていくことで、大きな愛が広がり、それが社会をより良くしていくと信じています。

宮田リオ

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天の窓を開いて下さった神様の恵み

私が什一を神様にお返しする事にしたのは、教会員になる前でした。「人類のあけぼの」を読んでいた時に、聖書のマラキ書3章も読んだと思いますが、「ああ、神様の物を盗んでいた。知らなかったのです。」それで、給与を頂いた中から什一を神様にお返しする事にしました。教会に所属していないため、自分で考えて、キリスト教関係の色々なところに寄付をしたり、聖書を購入してプレゼントしたりしました。間違った什一ですが、神様は祝福して下さり、それまでより貯金が増えました。そんな中で教会に招かれて1993年、43歳の時にバプテスマを授けられました。安息日の事で失業しましたが、頂いた物をお金に換算したりして什一をお返ししました。いつも、必要な時に必要な物が与えられ困った事がありません。什一の恵みをとても感謝しています。

今回は、神学科に入学した時の事と卒業した時の事を証したいと思います。

貯金が無くなったので、神様に「お仕事をください。」とお願いしました。すると、牧師先生が「神学科に行って学んでは如何ですか。」と募集要項を下さいました。その時「学びたい!」と思いました。父が急死した年で、母が落ち着くまでと考えて二年待ちました。願書を取り寄せて、健康診断書も出来ました。早朝に祈りの時を持ち感謝の祈りが溢れました。神様が天の窓を開いてくださると思いました。でも、願書提出の時3万円必要でしたが与えられませんでした。二次募集の日が過ぎました。ミセスに話したら、「あら、三育だから、三次募集があるわよ。」とおっしゃって、牧師先生が神学科に問い合わせてくださいました。「入学金と前期の授業料があれば、後はなんとかなるでしょう。」とお返事がありました。

それまで、「お金を下さったら行きます。」とお祈りしていましたが、お祈りが間違っていたことに気が付きました。「行きますから、入学金と前期の授業料を下さい。」とお祈りしたら直ぐ与えられました。友人が100万円下さって、「返さなくて良いよ。今まで出したいと思わなかったのに急に出したくなったから。」とのこと。

上京しなくて、現地で入学試験があり、神速で引っ越して、4月の入学式に間に合いました。48歳でした。勤労学生になり、週20時間図書館で働きました。奨学金を頂き、たくさんの方々に助けて頂きました。牧会実習までは乗り切る事が出来ました。学院に帰ると、牧会実習中のテストやレポートが待っていました。勤労学生のもう一人の方が実家に帰省されてその方の分も夜、図書館で働きました。更年期でもあり体調を崩して、勤労学生を辞めることにしました。1年留年することになり長老会の奨学金は頂けませんでしたが、学生文伝をさせて頂き学生文伝の奨学金を頂きました。沢山の方に助けて頂きました。しかし、卒業を前にして、学院に借金が出来てしまいました。事務長先生が「卒業してから返せば良いですよ。」と借用書を提出するように計らってくださいました。

でも、私にはどうしても納得することが出来ませんでした。それで、神様にお話ししました。「神様、私は今まで忠実に什一をお返ししてきました。神様のご用の為に神学科で学ばせて頂いています。それなのに、借金を抱えて卒業するのはおかしいと思います。マラキ書3章10節の御言葉にあるように天の窓を開いてあふるる恵みをお注ぎ下さい。」

すると、神学科入学時に勘当されていた母から、学院に100万円送金があり口座が黒字になりました。また、卒業式の時の写真を母に送付したら、とても喜んで卒業後、新しい任地に赴任する時に100万円送金してくれました。エアコンとパソコンを購入することが出来ました。神様の恵みをとても感謝しました。

その後も、色々な事がありましたが、いつも什一の祝福を頂いています。

藤髙邦子

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