第3課 教師としての律法 10月17日
暗唱聖句
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 申命記6:5
今週の聖句
申命記31:9~27、ローマ3:19~23、黙示録12:17、14:12、
マルコ6:25~27、ヘブライ5:8
今週の研究
律法は私たちに、イエスの中にしか見いだせない命の道を示すためにもあります。これは、真の教育が目的とすべきことでもあるのです。恵みの人生、信仰の人生、キリストに従う人生を私たちに示すことです。
それゆえ、私たちは今週、キリスト教教育のあらゆる問題における神の律法の役割について研究します。その際に、律法は私たちを救えませんが、信仰、恵み、堕落した人間に対する神の愛について、どのようなことを私たちに教えることができるのかを考えてみましょう。
火曜日:ヨシュアがカナンの地に入るとき、主は彼にこう言っておられます―「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する」(ヨシュ1:7)。服従の結果としてもたらされる成功というこの考えは、現代の世界において成功を判断する仕方とは対照的であるように思えるかもしれません。今日、成功の指標は、革新性、創造性、自立性であると、多くの人が信じています。何らかの分野で成功するためには、しばしば非凡な能力と、危険をいとわない態度が求められます。
しかし神の目から見れば、成功に必要なのは、一連の異なる資質なのです。
水曜日:疑問の余地のないことですが、善良で忠実な人、律法に従う人が、これまで必ず成功してきたかといえば、少なくともこの世が理解する成功という意味では、必ずしもそうでありませんでした。そしてそこには、この難問、つまり私たちが律法の重要性を教えようとするときに間違いなく生じる問題に対する部分的な答えがあるのかもしれません。私たちにとって、「成功」とは何を意味するのでしょう。詩編記者は何と言ったでしょうか。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは/わたしの神の家の門口に立っているのを選びます」(詩編84:11〔口語訳84:10〕)。この世の基準からすれば、神に忠実であり、神の律法を守る人でさえ、(少なくとも現世では)常に「成功する」とは言えないことは、間違いありません。忠実は常に成功すると言うなら、生徒たちにうそをつくことになります。
木曜日:「キリストを信じれば神に服従する義務はないというのは、信仰ではなく、憶測です。『事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました……』(エフェソの信徒への手紙2 章8 節)と言われています。けれども、『信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです』(ヤコブの手紙2 章17 節)とも記されています。またイエスご自身も、この地上に来られる前に、『わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み(ます)』(詩編40 編9 節)と言い、ふたたび天にお帰りになる直前には、『わたし(は)父の掟を守り、その愛にとどまっている』(ヨハネによる福音書15 章10 節)と言われました。聖書には、『わたしたちは、彼の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。……神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたようにみずからも歩まなければなりません』(ヨハネの手紙1・2 章3、6 節)」(『キリストへの道』改訂第3 版文庫判86 ページ)。
今週は、キリスト教教育と律法の関係について学びます。キリスト教において律法の役割についての立場のちがいが教派を分けていると言っても過言ではないでしょう。律法が与えられた役割はなんでしょうか。何かの道具の使い方について、最もよくわかっているのは設計者です。律法は、人間を創造された神さまが人間を幸せに生きるために与えてくださったものです。人間の取り扱い説明書ではないかと思っています。還暦を過ぎて、人生をふりかえると、たくさんのまちがった選びをしてきました。律法に従わなかったことも多々あります。従っていればこんなことにはならなかったのにと思うことも多々ありますね。
律法が与えられた目的は、何が正しいかまちがっているかを知って正しい選びをするためです。律法を行うことで天国に入ることはできません。けれども愛する神さまのみこころを実現して行くこと、それは律法に従って生きることなのです。エデンの園で最初の夫婦に神さまの言葉に従うことについて、神さまは自由を与えられました。同じようにわたしたちにも神さまの命令に従うか否かを選ぶことができます。神さまに従うことは律法に従うとことでもあり、律法を愛することは神さまを愛していることになるのです。