安息日学校部

20250104安河内アキラ解説

2025年第1期「神の愛と正義」

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第4課  神は情熱的で憐れみ深い  1月25日

暗唱聖句:女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。イザヤ49:15

今週の聖句:詩編103:13、イザヤ49:15、ホセア11:1~9、マタイ23:37、Ⅱコリント11:2、
Ⅰコリント13:4~8

今週の研究:抑えの利かない感情は、確かに問題かもしれません。しかし、神は感情を働かせることのできる人間を創造されましたし、神ご自身も深い感情を経験しておられることが聖書全体を通じて示されています。聖書が一貫して描いているように、神が深い感情を経験されるのであれば、感情が本質的に悪いものであったり、不合理なものであったりするはずがありません。なぜなら、聖書の神は完全に善であり、完全な知恵を持っておられるからです。
実際、私たちに対する神の愛が深い感情を伴う愛であると気づくことによって得られるすばらしい真理があります。しかし、神の愛は(感情的であろうとなかろうと)完全なものですが、人間が経験する感情と同一であると考えるべきではありません。その点には、常に注意する必要があります。

月曜日:神の揺るぎない誠実さとは対照的に、神の民は不誠実を繰り返し、最終的に神を遠ざけ、自分たちに裁きをもたらし、神を深く悲しませました。神は憐れみ深いお方ですが、決して正義を排除されません(あとの研究で見るように、愛と正義は切り離せない)。
何かに動揺して胃がキリキリと痛んだことがあるでしょうか。それが、ご自分の民に対する神の感情の深さをあらわすために用いられる比喩です。心を激しく動かされ、憐れみに胸が焼かれるという比喩は、深い感情をあらわす慣用句で、神と人間の双方に用いられます。
憐れみに胸が焼かれる(ヘブライ語で「カマル」)という比喩は、ソロモンの前にあらわれた2人の女性が、同じ赤ん坊を自分の子どもだとそれぞれ主張した場面で用いられています。ソロモンが(子どもに危害を加える意図はなかったものの)その幼児を二つに裂くように命じたとき、この比喩は本当の母親の感情的な反応を描写していました(王上3:26、創世記43:30と比較)。

水曜日:神の「ねたみ」は、しばしば誤解されています。もしあなたが誰かを嫉妬深い夫や妻だと言うなら、それはたぶんほめ言葉ではないでしょう。「ねたみ」という言葉は、多くの言語で否定的な意味合いを持ちます。しかし聖書では、神のねたみに否定的な意味はありません。それは、妻との独占的な関係を求める、愛情深い夫の正しい熱情なのです。
ねたみには、愛に反するものもありますが(Ⅰコリ13:4)、Ⅱコリント11:2によれば、良い「ねたみ」、正しい「ねたみ」もあるのです。パウロはそれを「神が抱いておられる熱い思い」(Ⅱコリ11:2)と呼んでいます。神のねたみは常に 正しい種類のものであり、ご自分の民に対する神の熱烈な愛と呼んだほうが適切かもしれません。
ご自分の民に対する神の熱情(ヘブライ語で「カナー」)は、彼らに対する神の深い愛に由来します。神はご自分の民との独占的な関係を望んでおられます。主だけが、彼らの神となるべきなのです。しかし、神はしばしばさげすまれた恋人として描かれ、その愛は報われません(ホセ1~3章、エレ2:2、3:1~12参 照)。このように、神の「ねたみ」、つまり「熱情」は、決して他から刺激を受けないものではなく、常に不信仰な人や悪人に反応するものなのです。神のねたみ(つまり「情熱的な愛」)には、人間の嫉妬のような否定的な意味合いはありません。それは決して嫉妬などではなく、常にご自分の民との独占的な関係や彼らの益のための適切で正しい熱情です。

木曜日:神の恵みと聖霊の力によって、私たちはどんな実際的な方法で、深く感情的でありながらも常に完全に正しく理性的な神の愛に応え、それを反映できるのでしょうか。第一に、唯一の適切な応答は、愛なる神を礼拝することです。第二に、私たちは他者に対して積極的に憐れみと慈愛を示すことによって神の愛に応えます。私たちは、キリスト教信仰によってただ慰められるだけでなく、他者を慰める意欲を持ちます。第三に、私たちは自分の心を変えることはできませんが、唯一神はおできになることを認識します。
ですから、神と他者に対する新しい心、すなわち、良いものを高め、望ましくないものを取り除く純粋な愛を与えてくださいと、神に求めましょう。
そして、こう祈りましょう。「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいます……ように。そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように」(Ⅰテサ3:12、13)

子どもの時に暗唱聖句で十戒を覚えるために苦労したことを忘れません。当時は口語訳聖書で、十戒の第二条ではねたむ神と訳されていました。本文にもありましたが、子どもながらにねたむという言葉が否定的な意味があるのはわかっており、神さまの愛について、なぜそのような言葉で表現するのかと思いました。新共同訳では熱情と訳されましたが、今週の学びを通して感じたのは「ねたむ」の方が、神さまの想いが伝わってくるように思います。それだけ神さまはわたしたちとの関係を大切にしているからです。
聖書研究ガイドの中にも用いられていましたが、神の愛は親子の愛に例えられることがあります。人間が身近にあるもののなかでは、神さまの愛を表現するのには良いのかもしれません。親にとっては、子どもは唯一無二のものです。どんなに問題を起こしても、親にとって子どもはかけがえのないものなのです。そして子どもから何か代償を期待するわけではありません。一方的に尽くすだけなのです。神さまから見れば、罪深いわたしたちはもっと無価値なもののはずですが、そんなわたしたちを愛してくださっているのです。それを表現するのが「ねたむ神」という聖書の言葉です。わたしたちが、神さま以外のものを信頼するのを神さまはねたまれるのです。神さまがねたまれるのは、決して否定的にとらえるのではなく、大きく深い神さまの愛を表している言葉なのです。