安息日学校部

20240306安河内アキラ解説

2024年第3期「マルコによる福音書」

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第6課   人の本性から出て来るもの   8月10日

暗唱聖句:外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。 マルコ7:15

今週の聖句:マルコ7章、イザヤ29:13、出エジプト記20:12、マルコ8:11~21

                                           

今週の研究:今週の研究は、マルコ7章と8章の前半です。マルコ7章の冒頭で、イエスは宗教的な言い伝えを否定することで論争を巻き起こされます。しかしイエスは、今日のクリスチャン生活に深く関連する何かを、明確に支持する形でそれを行っておられます。

マルコ7章は、もう一つのいやしの話とともに、奇跡がどれほど印象的であっても、多くの場合、それだけでは心を真理に開かせるには十分でないという重要な真実を明らかにしています。結局のところ、イエスを拒絶しようと心に決めていた宗教指導者たちにとって、奇跡は何の役に立ったのでしょうか。

マルコ8章の研究では、教えと言い伝えの象徴としてのパンの意義について考察します。これらの物語には、宗教生活の意味と実践に関するすばらしい教訓が含まれています。

                                           

月曜日:イエスはマルコ7:19で、食べ物は心の中に入るのではなく、胃の中に入り、腸管を通って出て行くと述べておられます。しかし、同7:21~23では、悪は心の内側から、つまりその人の本性の中心から出て来ると述べ、悪い思いから始まり、やがて悪い行動に至る悪徳のリストを提示しておられます。

マルコ7:10の十戒第五条への言及をその悪徳リストに含めるなら、十戒の後半すべての戒めがそこにあります。さらにイエスは同7:7で、十戒の前半四つの戒めの中心にあるものを破ることについて、つまり口先だけの礼拝について言及しておられます。したがってイエスは、この箇所で終始、神の律法を擁護しておられるのです。

                                           

水曜日:イエスは奇跡的にその男の聴力を回復し、はっきり話せるようにさせられました。彼のため息は、人間の選択の自由に関して神がご自身に課せられた限界をあらわしています。神は人間の意志を強制なさいません。すべての人間は、誰に自分の人生を導いてもらうか、命の君か、闇の君か、自由に選ぶことができます。イエスは耳の聞こえない人の耳を開くことはできても、不信仰な人の心にご自分がメシアであると認めさせることはおできにならないのです。

この短い物語もまた、喜んで神に立ち帰る人に神が何をおできになるかを示しています。あなたは、自分の信仰を伝えることにためらいを感じ、何を話すべきか、舌が回らないような経験があるかもしれません。この奇跡は、主イエスによってあなたの耳が開かれ、ほかの人の必要に敏感になり、彼らを力づける言葉を即座にかけられるようになるという励ましを与えてくれます。

                                           

金曜日:キリストの宗教は誠実そのものである。神の栄えをあらわそうとする熱心さは、聖霊によって植えつけられる動機であって、この動機を植えつけることができるのは、み霊の効果的な働きだけである。利己心と偽善とを追放できるのは、神の力だけである。この変化こそキリストが働いておられるしるしである。われわれの受け入れる信仰によって、利己心と見せかけとが滅ぼされるとき、またこの信仰によってわれわれ自身の栄えではなく、神の栄えを求めるようになるとき、われわれはその信仰が正しいものであることがわかる。『父よ、み名があがめられますように』というのが、キリストのご生涯の基調であったが、われわれがキリストに従うとき、それはまたわれわれの一生の基調となるのである(ヨハネ12:28)。主はわれわれに、『彼が歩かれたように』歩くように命じておられる。『もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである』(Ⅰヨハネ 2:6、3)」(『希望への光』884ページ、『各時代の希望』第44章)

                                           

マルコによる福音書の特徴の一つは短いことです。いろいろな主題が短く次々に書かれていますね。今週は前半の最終部分になりますが、たくさんの話しが書かれています。月曜日の学びの中で、言い伝えをどのように理解するか書かれています。言い伝えは聖書を実際の生活にあてはめたものと言ってよいでしょう。清い生活をしないという命令に対して、具体的にどのようなことが清いのか、当時の文化や習慣などをふまえて教えているものです。これは明文化していないものもふくめて、今日の教会の中でわたしたちの生活の中で、どのように生きるのかを示すことになります。けれども、それが時々神さまとわたしたちに関係を阻害することなっていないでしょうか。本来の目的である神さまとの清い関係を保つためではなく、決められた条文を守ることが中心になっていないでしょうか。ある教会に赴任してしばらくしてから、教会のご婦人から毎回新しい牧師さんが赴任すると、みんな奥さんがどんな服装をしているか気にしているんです。この話しを聞いて、教会に来て服装などで非難されないようにと教会の方々が気にされているのに気づかされました。教会の中での具体的な生活の教えは、気をつけないと本来の目的から逸脱する可能性がありますね。

7章の後半では、キリストが当時のユダヤ人が持っている選民思想に配慮しながら外国人の救いのために働いています。この偏狭さは当時のユダヤ人だけなのでしょうか。このような外国人を差別する考えは、いつの時代でもどこの国でもあることです。日本は外国人との共生が決して上手な国ではありませんね。彼らとは文化が異なり、言葉も通じないこともあるでしょう。郷に入れば郷に従えということわざがありますが、今日の日本での外国人との生活習慣などで問題が起こるのは、日本でのしきたりなどを彼らにわかるようにしっかりと教えてあげていなかったり、働く環境をしっかりと整えていなかったことが原因で起こっていることがとても多いと感じます。彼らをしっかりと隣人として迎えてあげることで、日本社会で生きて行くようになるのです。わたしたちは弱い立場にある外国人が近くに住んでいたら、ぜひよき隣人になってあげてください。神さまは、あなたにその役割を果たして欲しいと願っています。