第5課 湖の周辺での奇跡 8月3日
暗唱聖句:イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 マルコ5:19
今週の聖句:マルコ4:35~41、詩編104:1~9、マルコ5:1~43、民数記27:17
今週の研究:マルコ4章は、イエスと弟子たちがガリラヤ湖を渡る場面で終わっています。嵐が起こると、イエスは風と波を言葉によって静められます。マルコ6章の終わりにも同様の場面が出てきますが、ここでは、イエスが舟に乗った弟子たちに向かって水の上を歩いて来られました。このような湖上での場面の間に、陸地で行われたイエスの数々の奇跡と、弟子たちの最初の宣教活動が描かれています。これらの物語を今週は学びます。
こういった劇的な物語すべてに共通する特徴は、イエスが何者であるかを読者に理解させることです。イエスは、嵐を静め、悪霊に取りつかれた人をいやし、彼の服に触れただけの女をいやし、死んだ少女を生き返らせ、故郷で説教をし、弟子たちを伝道に送り出し、わずかなパンと魚で5000人もの人に食事を与え、水の上を歩くことができるお方です。信じがたい力があらわされ、弟子たちは、イエスが神の子であるという理解に少しずつ近づいていきました。
日曜日:マルコ4:35~41の物語は、聖書でよく見られるパターン、つまり「神の顕現」(神または神の使いの出現)に当てはまります。この出来事には、五つの特徴が共通しています。(1)神の力のあらわれ、(2)人間の恐れ、(3)「恐れるな」という命令、(4)神または天使があらわれたことに対する啓示の言葉、(5)啓示に対する人間の反応。この物語には、五つのうち四つが含まれています。嵐を静めたことは、神の力のあらわれであり、弟子たちの恐怖は、人間の恐れです。「なぜ怖がるのか」という質問は、「恐れるな」という命令であり、「いったい、この方はどなたなのだろう」という弟子たちの質問は、人間の反応です。欠けているのは啓示の言葉です。この欠落部は、この福音書全体を貫く「啓示と秘事の主題」に関係しており、そこでイエスについての真実が明らかになります。「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」という弟子たちの疑問は、欠けている啓示の言葉を埋めるように読者を促します。「彼は神の子、主ご自身なのだ」というのがその答えです。
月曜日:驚くべきことに悪霊たちは、イエスが何者であるかを正確に知っており、彼の前では自分たちが無力であることも知っていました。それゆえ、自分たちの求めたことを実行してくれるよう、二度も「願った」(マコ5:10、12)のです。明らかに彼らは、自分たちに対するイエスの力を知っていました。
この物語には、二つの重要な特徴があります。第一に、旧約聖書の律法に従えば、汚れたもの、儀礼的に汚れたもので、この物語があふれていることです。墓も死者も汚れていました(民19:11、16)。出血は人を汚し(レビ15章)、豚は汚れたものでした(同11:7)。
第二に、この汚れの列挙に貫いているのは、善と悪の勢力の一進一退の戦いであるということです。イエスは悪霊を追い出され、悪霊たちは豚を殺します。町の人々はイエスに立ち去るよう頼み、イエスはいやされた男を証人として家に帰されます(イエスの勝利)。ある意味で、この男は最も思いがけない宣教師でしたが、彼には語るべきすばらしい物語が間違いなくありました。
火曜日:物語は突然、憐れみを誘う別の場面に切り替わります。12年間も病で苦しんできた女が登場したのです。ヤイロと女のこの物語は、マルコによる福音書における2番目の「サンドイッチ物語」です(3課で取り上げたマコ3:20~35参照)。この物語では、ヤイロと女性という対照的な人物がイエスのもとに助けを求めてやって来ます。
女はイエスの後ろから近づき、その服に触れました。すぐに彼女は元気になります。しかし、イエスは立ち止まり、「わたしの服に触れたのはだれか」と尋ねられました。彼女は、イエスが自分のしたことに怒っておられるのではないかと恐れます。彼女の感情は激しく動揺しました。しかし、イエスは彼女の体だけでなく、魂をもいやしたいと願っておられたのです。
話はヤイロに戻ります(マコ5:35~43参照)。会堂長の感情もまた、激しく動揺していました。イエスは、3人の弟子のほかは、誰も自分と両親について来ることを許されませんでした。少女は死んだのではなく、眠っているのだと、イエスは言われます。彼は、死んだ少女が横たわっている部屋に入ると彼女の手を取り、「タリタ・クム」と言われました。マルコは、「少女よ、起きなさい」と訳しています。実際、「タリタ」という言葉は「子羊」を意味し、家庭での子どもの愛称なのでしょう。「だれにも知らせないように」というご命令は、この福音書を貫く「啓示と秘事の主題」の一つであり、イエスが何者なのか、最終的には、隠したままでいることができないことを示しています。
木曜日:この物語の特徴は、当時一般的だったメシアの概念に関係しています。人々は、メシアがイスラエルを敵から解放し、正義と平和をもたらすと期待していました。荒れ野に大勢の人が集まるということは、軍事的な反乱を引き起こすという含みを伴うことでした(ヨハ6:14、15、使徒 21:38と比較)。
しかし、イエスは彼らの誤った期待にはお応えになりません。それどころか、弟子たちを送り出し、群衆を解散させられました。イエスは、ローマに対する反乱を導くのではなく、何をなさったのでしょうか。人々が期待していたことではありませんでしたが、イエスは、祈るために山に登られました。メシアは、イスラエルを解放する王であるという一般的な見方とは異なり、メシアは、人々を罪の束縛から解放するために来られます。イエスが水の上を歩かれたのは、ご自分が確かに自然界の「主」であることを弟子たちに示すためでした。しかし、イエスは支配するためにではなく、多くの人の身代金としてご自分の命をささげるために来られました(マコ10:45)。
今週はマルコによる福音書4章の後半から5章を学びます。マルコによる福音書の前半は「イエスさまは何者か?」がテーマでした。このことを考えながら今週の学びも進めていただくと、学びを深めていただくことができます。
わたしは5章でキリストが悪霊と対峙する場面があり、ここはとても好きな個所です。悪霊は自分たちのことを「レギオン(大勢)」と言っています。たくさんいれば、一か八かで戦いを挑めば勝てるのではないかと彼らが考えなったほど、悪霊はキリストとの力の差は歴然としていることを彼らは知っていました。これは現代の善と悪との戦いにも同じことが言えます。わたしたちが助けを求めたら、神さまは悪魔の力に負けることはありません。
もう一点、月曜日の学びの引用文に書かれていますが、この物語の中には儀礼的に「汚れ」たものがたくさん登場するのです。旧約聖書に汚れたものだから避けるように教えられています。それはさわったら霊的に汚れるというのではなく、公衆衛生のために書かれていました。死体や感染症に感染している人に触ったら、それが接触感染する可能性があるから、隔離をするように勧められています。今日のように感染症予防のための道具が無い時代のことですから、聖書は感染症についてわかりやすく説明するための、汚れると記載したのでしょう。
けれどもキリストは彼らを救うために、汚れている人たちの中に入って行かれたのでした。求めている魂が救われるために何でもなされる、それは政治的な救い主ではなく、彼が最もなさりたい愛の実践の顕れだったのです。