第6課 天に宝を積む 2月11日
暗唱聖句:「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」 マルコ 8:36、37
今週の聖句:創世記 6:5~14、ヘブライ 11:8~13、2 コリント 4:18、創世記 13:10~12、 創世記 32:22~31、ヘブライ 11:24~29
今週の研究:あなたは神の国への心が欲しいですか。もしそうであれば、あなたのお金を永遠の報いを得るところに置きましょう。あなたの時間とお金と祈りを、神の働きのために用いましょう。もしそうすれば、あなたはすぐに神の働きに興味を持つようになり、あなたの心もそこに向くようになるでしょう。今週、私たちは、天に宝を積み、最終的に永遠の報いを得る方法を示す聖句とその実例について学びます。
日曜日:一方、聖書はまた、人々は洪水のときと同様に、終わりの時の出来事に懐疑的であると言っています(2ペト3:3~7参照)。では、どうすればやがて訪れる滅びに備えることができるでしょうか。〔目先の欲求を我慢する〕「満足遅延耐性」と呼ばれる意識的な決断があります。これは基本的に、より輝かしい将来の報いを待ち望み、神が私たちに求められた働きを忍耐強く行うべきであることを意味しています。私たちは、キリストがいつ戻られるかわかりません。ある意味、それが問題ではありません。代わって重要なことは、私たちはノアのように、何らかの大きな人生の変革を意味するとしても、その時に神が私たちに求めておられることを行うということです。
月曜日:アブラムは、周囲に住んでいた人々からは神のつかさとして知られていました。彼は寛大で、勇敢で、親切で、いと高き神の僕として知られていました。 彼の神への証は、模範的なものでした。神の恵みによって、私たちはアブラハムの相続人です。「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」(ガラ3:6、7)。「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(同3:29)。
アブラハムもノアと同様に、神に従うとき、人生を変えるような大きな決断をしていることが分かります。
木曜日:エジプトは当時、古代世界で最も偉大な大国の一つでした。ナイル川は肥沃な土地を生み、作物をたわわに実らせるエジプトは、豊かで力強い国でした。 モーセはこの王国の高い地位にいました。モーセの生涯の初期に、世の誘惑、エジプトの王国とその財宝のすべてが、彼にとってどれほど魅力的であったかは想像するに難くありません。確かに彼は、偶像崇拝、快楽、富、誘惑を知っていました。疑うことなく、彼は、軽蔑されている奴隷の一団と運命を共にすることよりも、エジプトに留まることを正当化するほうが簡単であったはずです。
しかし、モーセは、聖書が言うように、「はかない罪の楽しみにふけるよりは、 神の民と共に虐待される方を選び」(ヘブ11:25)ました。出エジプト記の大部分は、彼の苦難と試練を書き記しています。しかも、すべての困難を通り抜けてもなお、約束の地に入ることはできませんでした(民20:12参照)。しかし、私たちは皆、モーセが正しい選択をしたことを知っています。彼が、たとえ何 度も本当に正しい選択をしたか疑問に思うことがあったとしても、彼の選択は、正しいものでした。
今週の題は「天に宝を積む」とあります。わたしは子どもの時から教会で、良いことをすることは天に宝を積むことなんだよ、教えられてきました。そのような経緯もあり、今週の学びは予想外の内容でした。ノア、アブラハム、モーセについて学びますが、それぞれ神さまから特別な使命を受けて、そのために生涯をささげました。こうなるとヘブライ13章の信仰の勇者たちが、天国にある神さまの家を信じて目標として歩んだことが天に宝を積むことになるのでしょうか。
今期の学びの最初で、わたしたちの生き方が問われている学びと書きました。神さまは、時と場合によっては彼らのように生涯をかけての献身を求めることもあるでしょう。けれどもある人には、今いる場所で多くの人の幸せのために働くように召されている人もいます。わたしたちのいのちが、そして出会いが神さまによって導かれていることを忘れないでください。神さまの召しは大きなものではないかもしれません。けれども神さまから与えてくださった、あなたの家庭をしっかりと守ること、信仰を継承することも大切なことです。どのような立場であっても、わたしたちが何に信頼を置くか、この地上にあるものにすがるのか、それとも神さまを信頼して生きるのか、そのような生き方が天に宝を積むことなのです。人と比べるのではなく、あなたが置かれた場所で、どのように神さまのみこころを求めて、果たして行くのか、これが大切なのです。
さて第5課の聖書研究ガイドの本文について教団から下記の文章が送られてきました。
今期の聖書研究ガイドの42ページに「クレジットカードの破棄」が勧められています。
これについて確認する必要があると思いましたので、メールさせていただきました。
著者の意図は、借金に陥り、安易にクレジットカードを用いて、借金が増え続けている場合、クレジットカードを破棄することも検討されるということであり、教会員はクレジットカードを持ってはいけない、持っていたら破棄しなさいと勧めるものではありません。誤解のないようにご配慮をお願いいたします。
クレジットカードやアプリ決済の利用は、現金払いよりも、金銭を使っている感覚が薄れ、借金をしやすくなる傾向があるかもしれません。また、クレジットカードのリボ払いも違法ではありませんが容易に利用することはやはり注意する必要があるでしょう。多くの教会員には、クレジットカードの使用に注意しましょうという言い回しの方が、よいと思われます。
わたしも先週の学びの中で、クレジットカードなど現代は簡単に買い物ができるから、ほんとうにその買い物があなたに必要な物であるか、考えるようにしましょうと書きました。わたしたちは神さまから多くの祝福を受けています。その祝福を、自分だけでなく多くの方々へ伝える役割が与えられていることを忘れないでください。