安息日学校部

20230101安河内アキラ解説

2022年第4期「永遠の命」

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第1   神の家族の一員として   1月7日

 

暗唱聖句:御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。 ヨハネ第一3:1

                                                                 

今週の聖句:ガラテヤ 3:26、29、詩編 50:10~12、歴代誌上 29:13、14、フィリピ 4:19、           1ヨハネ 5:3、マタイ 6:19~21

                                                                  

今週の研究:クリスチャンとして、神との関係についての驚くべき事柄の一つは、神が私たちを信頼して、神の地上での働きを私たちにゆだねておられることです。

神は私たちに、神がお与えになった資産を、私たちの必要のために、他者の必要のために、そして神の御業の進展のために用いるよう奨めておられ ます。信じがたいことに、主は私たちに、神の子どもたちを育て、神の建物を建て、そして次の世代を教育することをゆだねられました。今週、私たちは神の家族の一員であることの特権と責任について学びます。

 

                                                                 

はじめに:神は聖書の中に、金銭や財産の扱いとそれに向かい合う姿勢に関する2000以上もの節を通して、私たちが人生のストレスを乗り越えてどのように生きるべきか、与えられた財産をどのように忠実に管理すべきかについて具体的に教えてくださっているのです。

私たちは今期の学びを通して、神との理想の関係について学び、たとえ売ることも買うこともできない時が来たとしても(黙13:17)、神に忠実であり続けることができるほど深い信頼をどのように築けるかを明確に理解します。しかし、そのような信仰は一夜にしてできるものではありません。私たちは、神が与えてくださったものを忠実に管理することによって、私たちの前途にどんなことが起ころうとも、今、それに備えることができるのです。

神はすべての源であるお方ですから、私たちが神と共に働くなら、それらを主のために用いることをお許しになります。人類が清められ、聖なる者とされ、主のために働く助け手となることが救い主の目的です。このすばらしい特権のゆえに主に感謝をささげましょう。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロ1:13、14)。

                                                                   

月曜日:ここに、貧富にかかわらず、私たちすべて(特に富んでいる者)にとって重要な教えがあります。初めに神がすべてのものを造られたのですから(創1:1、ヨハ1:3、詩編33:6、9参照)、真に主こそが、私たちが持っている物を含めて─私たちがどんなに一生懸命に、熱心に、誠実に、それらのために働いたとしても、存在するすべてのものの正当な所有者です。神とその恵みがなければ、私たちは何も持たず、何者でもなく、事実、存在すらできません。ですから、私たちは常に、究極の意味において神が存在するすべてのものの所有者であるという認識を持って生きなければなりません。そして、私たちに対する神の善良さを賛美し、感謝することによって、私たちはこの重要な真理を覚えることができるのです。

                                                                 

木曜日:もちろん、聖書は金持ちになることも、富を蓄えることも悪いことだとは言っていません。そうではなくイエスは、これらの聖句を通して、この世の富しか目に入らなくなることを警告されているのです。

しかし、天に宝を積むとはどういう意味でしょうか。それは、何よりもまず金銭を重要なものとするのではなく、神と神の働きを第一にすることを意味し ます。とりわけ、神の御業のために、神の国の進展のために、他者の益となる働きのために、そして他者を祝福するために、自分の持っているものを用いることを意味します。

「金銭は、大いなる善をすることができるから、大きな価値がある。それが神の子供たちの手にあれば、 貧しい人の食事、かわいた人の水、裸の人の着物となり、圧迫されている人々の防御となり、病人を助ける手段にもなる。金銭は、困っている人々を助け、他を祝福し、キリストの働きを前進させるために用いてこそ、価値があるのであって、もしそうでないならば、金銭は砂と同様でなんの価値もないのである」(『希望への光』1324ページ、『キリストの実物教訓』327ページ)

                                                                

今期は管理者として務めについて学びます。これは、わたしが何者かを問うているのです。わたしのいのちはどこから来たのか、今わたしが立てられているのは、誰がどのような目的でゆるされているのか。そしてわたしたちが信頼するべきものは誰なのか、などへの問いかけの答えを今期は学びます。

聖書はわたしたちのいのちなどすべては神さまから貸与されていると教えています。これをどのように用いるか、それはわたしたちにまかせられているのです。それをもちいて多くの祝福をまわりに与えることもできるでしょう。逆の使い方も可能なのです。

横須賀市内にあるキリスト教系の病院、衣笠病院の広報誌で、「この土台はイエスキリストである」コリント第一3章11節を用いてチャプレンが書かれている記事を読みました。病院は教会ではないが、神さまの栄光のために立てられました。キリストは福音を伝えると同時に癒しの業をされました。その結果、今日まで福音が語られるところでは病む人とともに歩む医療や福祉の働きが行われ来たのです。キリストのからだと伝えられている教会は、宣教者であるとともに奉仕者として立てられています。

わたしたちの教会や学校、病院や福祉施設は、神さまによって立てられていることを忘れてしまっていることは無いでしょうか。今期は、わたしたちが誰によって、何のために立てられているのか、わたしたちの奉仕は誰のためなのか、このことをともに考えていく学びとなっていきます。