第13課 試練の中のキリスト 9月24日
暗唱聖句 「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という 意味である。」 マタイ 27:46
今週の聖句 ルカ 2:7、22~24、マタイ 2:1~18、ヨハネ 8:58、59、ルカ 22:41~44、 マタイ 27:51、52、ローマ 6:23、テトス 1:2
今週の研究 私たちが苦しみについて考えるとき、そもそも罪や苦しみは、どのようにして起こったのかという疑問が湧いてきます。天の啓示を通して私たちは良い答えを持っています。すなわち、罪と苦しみは、自由な存在が、神が彼らに与えられた自由を誤用したことによって起きたのでした。この答えはさらにもう一つの問いを導きます。すなわち、神はこの存在が堕落することを前もって知っておられたのかという問いです。答えは「イエス」です。しかし神は、C・S・ ルイスが書いたように、それを「リスク(危険)を負うに値する」とお考えに なったのです。
だれに対するリスクでしょうか。神は天の御座に着いたままで、私たちのためにそのリスクを負われるのでしょうか。この答えは正確ではありません。す べての知的被造物の自由はあまりに神聖なものであったので、神は私たちの自由を否定することよりも、私たちが自由を誤用したために生じた苦しみの矢面に立ち、自らお受けになることを選ばれたのです。そして私たちはこの苦しみをイエスの生と死の中に見るのです。主は、私たちの肉の苦しみを通して永遠に続く天と地の絆を創造されたのです。
日曜日:堕落前のアダムとエバを除いて、イエスはただ1人、地上に生きた罪のない人でした。主はその純潔、罪なき潔白さを持って、罪の世に沈められたのです。 子どもであっても、彼の純粋な魂にとって、絶えず罪に触れ続けるということは、 どれほどの苦痛だったことでしょう。罪によって無感覚になった私たちでさえ、 しばしば嫌悪感を抱かせるような罪や悪にさらされる世界から逃げ出したいような気になります。純粋な魂を持ち、罪による1点のしみもないお方であるキリストにとって、その苦しみはどれほどのものであったか想像してみてください。この点について、彼と彼を取り巻く周囲の者たちとの身を切るような違いを考えてみてください。それは彼にとって耐えがたいものであったことでしょう。
月曜日:指導者であれ庶民であれ、イエスの生涯、行動、そしてその教えは常に誤解され、彼が救うために来られた人類によって拒まれ、憎まれたのでした。ある意味、それは、助けを必要としながら言うことを聞かない子どもを持つ親のようです。親は子どものために喜んで何でも与えたいのですが、子どもは親を足蹴にし、嘲笑し、おそらくその子どもを完全な破滅から救うことのできる唯一の人を拒みます。イエスが地上生涯で経験されたのはそういうことでした。 主にとってそれは、どれほど苦痛に満ちた経験だったことでしょう。
水曜日:ご存じのように、キリストの肉体の苦しみは、その時実際に起きていたことに比べればまだやさしいものでした。この出来事は単に無実の男を殺す以上のことだったのです。
無実の男の不当な死という出来事以上の何かが、明らかに起きていました。 聖書によれば、罪、それも私たちの罪に対する神の怒りがイエスの上に注がれ たのです。十字架上のイエスは、罪、それも全世界のすべての罪に対する義なる神の義憤を一身に受けられたのです。こうして、イエスは、人類のだれも知らず、経験したことのないより深く、暗く、そしてつらい苦しみをお受けになっ たのでした。
木曜日:苦しみに遭うとき、私たちは二つのことを心に留める必要があります。
第一に、主キリストは、私たちが経験したどのような苦しみよりもつらい苦しみを経験されたということです。十字架で「彼が担ったのはわたしたちの病 /彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(イザ53:4)のです。私たちがただ個人として知っていることは、彼は私たち人類すべてのために苦しまれたということです。罪のないお方が「わたしたちのために罪と」(2コリ5:21)され、罪深い被造物として苦しまれたのですから、それは想像さえできないこと です。
しかし第二に、私たちが苦しむとき、キリストの苦しみの結果、すなわち、キリストが私たちのためにしてくださったことを通して、何が私たちに約束されているかを覚えておくべきです。
この世での苦しみがどのようなものであっても、私たちには永遠の命が約束されています。それはイエスのお陰であり、イエスが私たちの罪の罰をその身に負ってくださったお陰であり、(信仰を通してイエスに完全に信頼できるという) 福音の豊かな恵みのお陰なのです。キリストが成し遂げてくださったこと、その完全な生涯と犠牲のお陰で、痛み、失望、喪失に満ちた私たちの人生は一瞬にして過ぎ去り、それとは正反対の罪も苦しみも死もない新しい天と新しい 地における永遠が、私たちには約束されています。これらすべてのものが私たちに約束され、確かなものとされたのは、ひとえにキリストと、彼が受けてくださった苦しみのゆえであり、こうして、まもなく来るべき日に、主は「自らの 苦しみの実りを見/それを知って満足」(イザヤ5:11)されるのです。
今期の学びが終わろうとしています。ここ数ヶ月、わたしも仕事の中で次々に苦しみがやってきました。その中で、とにかく楽になりたいというのが本音でしたが、終わってしまうと人間は苦しんでいる時のことを忘れてしまう弱さをもっています。けれども苦しみにはいろいろな要因があり、そしてそれを通して導かれる神さまの深い愛も学びました。
今期の学びの主題を見ると、力の限り戦うとあり、苦しみを前にして人間として最善を尽くさねばなりません。そして必ず導かれることを信じているから、賛美をして待つことも勧められています。神さまがこのようにわたしたちに苦しみにあうことを許されるのは、わたしたちが清められ成長をするためなのです。
苦しみ最中で忘れてはいけないことが二つあります。わたしたちが苦しみ遭い、誤解を受けたり嘲笑を受けることがあっても、キリストほどの痛みや苦しみを受けた方はいなかったということです。ここまで降ってくださり、わたしたちの罪を背負ってくださったのです。
そしてもう一つ、それは最後には神さまが勝利されて、わたしたちには永遠の天国が約束されているのです。だからこそ、置かれた場所で与えられた光を受けて、それぞれの働きを担いながら前進をして行きたいと願っています。