安息日学校部

20220302安河内アキラ解説

2022年第3期「試練を共にされるキリスト」

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第2   来るべき試練   7月9日

 

暗唱聖句  「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、 何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」 ペトロ第一 4:12、13

                                                                 

今週の聖句  ペトロ第一 4:12~19、ペトロ第一 5:8~11、ローマ 1:21~32、 エレミヤ 9:6~15  (口語訳 9:7~16)、コリント第二 12:7~10

                                                                 

今週の研究  今週私たちは、人が困難に遭ったり試練を経験したりするとき、変化し、発達し、品性が成長するといったことが突然起きる理由に焦点を当てます。 この学びは、神が私たちの人生にどのようにかかわっておられるかを知る助けとなり、私たちが試練に遭うとき、どう対処すべきかのヒントとなるでしょう。

                                                                 

日曜日:初めに、1ペトロ4:12に戻りましょう。ここに出てくるギリシア語の「驚き怪しむ」は「異質な」あるいは「外来の」を意味します。ペトロは読者に、火のような試練や苦しい経験が、クリスチャン経験にとって異質なものだと考えてしまう罠に陥らないように勧告しています。むしろ、それらは普通のこと、 つまり予期できるし、予期すべきことだと考えるべきだというのです。

ここで「火のような試練」と訳されているギリシア語は、「燃えるもの」を意味し、別の場所では「炉」と訳されています。このように、信仰のために受ける苦しみの経験は、火で「精錬する」過程、すなわち「るつぼ」で熱する過程だと考えることができます。

                                                                 

月曜日:ペトロはこの聖句を、クリスチャンの信仰に対するサタンの攻撃という文脈で書いています。すでに学んだように、サタンはあらゆる攻撃の手を尽くして働いています。そのような敵が存在するという現実とその力に警戒しなければ なりませんが、私たちは決して失望してはなりません。サタンを撃ち破ったイエスを常に覚えねばなりません。サタンは敗れた敵であり、イエスとつながっている限り、信仰によって彼にすがっている限り、決して負けることはありません。なぜなら、十字架のゆえに、キリストの勝利は私たちのものだからです。

                                                                 

火曜日:パウロはこの数節前に、罪の結果を「神の怒り」(ロマ1:18、口語訳)として描写しています。この「神の怒り」とは、単に神が、人間がまいたものを刈り取るのを許されることを意味します。クリスチャンのためであろうと、神は私たち自身の行為の結果である苦しみをすぐに取り除くとは限りません。多くの 場合、神は、罪がどれほど深く人を傷つけ攻撃するかを私たちが理解できるように、私たちが自分の行為の結果を経験するのをお許しになるのです。

ここまで神の道徳律を破った結果について考えてきましたが、神の健康に関する律法を破ることについてはどうでしょうか。私たちの体は神の宮です。私たちが健康的な食物を摂ることや運動を怠ること、あるいは常習的な過度の労働もまた神に対する罪であり、「るつぼ」の条件を整えるという結果を招きます 。

                                                                 

水曜日:神の清めと試しは激烈な行為を伴います。この清めと試しが「るつぼ」のように感じられるのには、おそらく三つの理由が考えられます。第一に、神が私たちに自分の罪を気づかせる状況をお許しになるとき、私たちは痛みを経験します。この少し前に、エレミヤはみじめな気持ちで次のように書いています。 「鉛はふいごで起こした火に溶ける。彼らも火で試されたが、空しかった。彼らの悪は取り除かれることがなかった」(エレ6:29)。このように、私たちに気づかせるためには、思い切った行為が必要です。第二に、私たちは、はっきり示された自分の罪を自覚するとき、苦悩を覚えます。第三に、私たちは今までと違う生き方をしようとするときに欲求不満を覚えます。自分の一部であった ようなことを手放すことを選び続けることは、極めて不快であり難しいはずです。

                                                                 

木曜日:人々はパウロの言う、彼の肉体に与えられた「一つのとげ」(2コリ12:7)は実際に何を意味するのだろうかと考えてきました。敵からの絶え間ない攻撃を受けていたという説や、話すことが苦手だったという説もありますが、実際には視力に問題があったのではないかと考えられています(『SDA聖書注解』第6 巻1107ページ、英文参照)。驚くべきことに、パウロは彼の「とげ」が「与えられ」 たものであると信じていたのです。

パウロは彼の「とげ」が、ある特定の目的、すなわち「思い上がることのないように」(2コリ12:7)与えられていると言っていることに注目してください。 彼が犯した過去の罪のゆえにではなく、彼が将来罪を犯さないようにするためでした。パウロは自分が生来、罪に対する一つの弱さをもっていることを知っていました。ですから、この「とげ」が彼をその弱さから守ることができたのです。

                                                                

今週は、短い引用文を多数掲載しました。聖書の中では苦しみの原因を三つあげています。①月曜日の、サタンの攻撃、②火曜日の、罪の結果を刈り取る、③神さまから与えられたトゲ、弱さなど。わたしはそれぞれが密接にかかわっているのではないかと考えます。サタンの攻撃を受けて、誘惑に負けてその結果を刈り取ることになる。またもともと持っている弱さをサタンが誘惑して、そして誘惑に負けてしまい罪の痛みに襲われます。

このような罪との戦いが起こるのは、わたしたちが生来罪人であり、目には見えない世界で善と悪との戦いが行われているからに他なりません。その人間に対して神さまは、人間が清くなるために試練に遭うことをゆるされているのです。もちろん自分の力で罪を清めることはできません。けれども清めを求める生き方を苦しみを通して学んで行きます。水曜日のその理由が書かれています。苦しみを通して①罪に気づかせる、②罪を自覚する、③罪から離れるためことを学ぶのです。

苦しみや痛みから逃れることをわたしたちは願います。けれども、その問題の発生の原因が自分にあるかもしれません。また神さまがそれを通してあなたに語りかけている声を聴いて行きたいですね。