安息日学校部

20220107安河内アキラ解説

2022年第1期「終わりの時代に生きる」

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第7   魂の錨イエス   2月12日

 

暗唱聖句
「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。イエスは、わたしたちのための先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。」 ヘブライ人への手紙 6:19、 20

                                           

今週の聖句
ヘブライ 6:4~6、マタイ 16:24、ローマ 6:6、ヘブライ 10:26~29、  ヘブライ 6:9~13、ヘブライ 6:17~20

                                           

今週の研究
試練に遭って失望し、キリストから離れてしまうことは、私たちが皆、潜在 的に持っている危険ではないでしょうか。

しかし、この厳しい警告は、愛情に満ちた励ましで締めくくられています。パウロは彼の読者たちの内に信仰を認め、破られることのない神の彼らに対する救いの約束の実現としてのイエスを称賛します(ヘブ6:9~20)。この警告と 励ましのサイクルはヘブライ10:26~39にも見られます。

今週、私たちはこのサイクルを学び、イエスが私たちにお与えになる力強い励ましの言葉に焦点を当てます。

                                           

火曜日:著者がここで言いたいことは、真理の知識を受け入れた後に犯した罪は、もう贖うことができないということではありません。神はイエスを私たちの「弁護者」として任命し(1ヨハ2:1)、彼を通して私たちは罪の赦しを得ることができます(同1:9)。いけにえも贖いの手段もない罪とは、「神の子を足げにし、……契約の血を汚れたものと見なし、……恵みの霊を侮辱する」罪です(ヘブ 10:29)。これらの表現の意味を考えてみましょう。

「契約の血を汚れたものと見な」すとは、イエスの犠牲を拒むこと(ヘブ9:15 ~22)を、そしてイエスの血にある清めの力を認めないことを意味します。「恵みの霊を侮辱する」とは非常に強い表現です。ここで使われている「エニュブリサス」(「侮辱する」)というギリシア語には、「傲慢」「尊大」といった 神に対する思い上がりという意味が含まれます。この言葉は、「恵みの霊」と 描写された聖霊と極めて対照的です。この言葉は、背信の者が神の恵みの申し出に対して、侮辱をもって応えたことを意味しているのです。

背信の者は擁護しえない立場、すなわちイエスを拒み、イエスの犠牲を拒み、 聖霊を拒む立場に自らを置いているのです

                                           

水曜日:ヘブライ6:4~8の強く真摯な警告の後に、パウロは、読者たちが御子から離れていないこと、そして未来においても離れることはないという確信を述べています。彼は、彼の聴衆が警告を受け入れ、実を結ぶと確信しています。彼らは神によって耕され、神が期待する実を結ぶ「土地」のようです(ヘブ6:7)。これらの人々は神から「救い」という祝福を受けます(同6:9)。

ヘブライ6:12を見てください。成熟できない者や、堕落する者たちの特徴である「怠け者」にならないよう警告しています(ヘブ5:11~14、6:12)。信仰は、頭の中だけの知識ではなく、愛の行為の中に表現されて初めて生きたものとなるのであり、これこそが希望です(ロマ13:8~10)。

パウロは読者たちに、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣ってほしいと言います。彼はすでに、信仰と忍耐が欠けていたために約束されたものを受け継ぐことができなかった荒れ野世代を消極的な例として示しています。彼はその後、アブラハムを「信仰と忍耐」によって約束のものを受け継いだ例として示しています(ヘブ6:13~15)。11章には信仰の偉人たちの名を模範として連ね、12章では信仰と忍耐の最高の模範としてイエスをその頂点に挙げています(同12:1~4)。黙示録14:12には、信仰、忍耐、そして戒めを守ることが終わりの時代の聖徒たちの特徴として挙げられています。

                                           

木曜日:神は私たちに対する約束をいくつかの方法で保証しておられます。第一に、神は誓いをもって保証してくださいます(ヘブ6:17)。聖書によれば、アブラハムやダビデに対する神の誓いは、イスラエルに対する神の不変の寵愛を信じる 究極の基礎となりました。金の子牛を作って背信した後に、モーセが神のイスラエルに対する赦しの保証を求めたとき、神のアブラハムへの誓いを引用しました(出32:11~14、創22:16~18参照)。神の誓いは変更不可能であるということが、彼の嘆願の強さに込められていました(ロマ9:4、11:28、29)

二番目に、神はイエスを神の右の座に着かせることによって、私たちへの約束を保証されました。イエスが「わたしたちのための先駆者」として昇天されたことによって(ヘブ6:20)、イエスの昇天には、信じる者たちに約束の確証を 与えるという目的があります。このように、イエスの昇天は私たちのための神の救いの確実性を示すものです。神は「すべての人のため」の「死の苦しみ」を通してイエスを栄光へと導き、それによって、「多くの子らを栄光へと」導かれました(同2:9、10)。父なる神の御前のイエスの存在は、神の御座につながれた「魂の錨」なのです(同6:19)。神の統治の誉れは、神の約束がイエスを通して成就されるか否かにかかっていました。私たちにとってこれ以上の保証 が必要でしょうか。

                                           

今週は、ヘブライ5章と7章から、イエスさまは祭司であることについて学びます。ヘブライ人への手紙の主要なテーマのひとつは、天に聖所があり、イエスさまが真の大祭司であることを教えています。日曜日の学びに書かれていますが、イエスさまは祭司として人類の弱さを理解するために、人となってくださったのでした。それはご自身のためではなく、わたしたちすべての人類のためでした。

聖書研究ガイドの本文の水曜日と木曜日には、祭司としての働きについて具体的に書かれています。まず新しい契約の保証人です。神さまとの契約は永遠に続くものです。それはイエスさまがわたしたちの身代わりとなって罪を背負っていただいたからこそ、わたしたちが受けることができる恵みなのです。この保証人としての働きは彼しかできません。

そしてイエスさまは聖であり、汚れなく、罪人から離されました。イエスさまのご生涯、それは罪の無い完全な生き方でした。けれども自分の姿を見ると、とても自分の力で清くなることは不可能なことがわかります。イエスさまのご生涯を見ることで、わたしたちは十字架にすがるしか救いがないことを知らされます。

最後にイエスさまはもろもろの天より高くされとあります。十字架に架かる前夜、二階座敷での説教の最後に、イエスさまはすべてものに勝利されたと宣言されました。もちろん十字架に架かれて復活されることによって勝利をされるのですが、聖書は時としてこれから起こることを完了形で書くことがあります。それは神さまの約束が確かなしるしだからです。イエスさまが天の聖所で大祭司として働かれている、それはすべてに勝利されたからこと、わたしたちの罪を贖うために働くことができるのです。