安息日学校部

20200409安河内アキラ解説

2020年第4期「教育―天国に備える教育」

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第9課  教会と教育 11月28日

 

 

暗唱聖句
「また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。」
Ⅰテサロニケ2:6~8

                                           

今週の聖句
ルカ10:30~37、マタイ5:14~16、ルカ4:18~23、エレミヤ29:13、マタイ7:7、Ⅰテサロニケ2:6~8

                                           

今週の研究   もし教会が教育の場であるべきなら、心からの対話がなされる場を提供しなければなりません。私たちが生徒だったとき、「馬鹿げた質問など何一つない」と繰り返し学校で言われたように、私たちは教会の中で、それぞれの人が恵みによって成長し、神と神のご計画に対して理解を深められる安全な環境を提供しなければなりません。

                                           

日曜日:私たちセブンスデー・アドベンチストは、多くの教理的な光と真理(例を挙げれば、死者の状態、安息日、1844 年と裁き、善と悪の大争闘など)を与えられてきました。キリスト教世界の大部分でさえ、それらを未だに理解していません。しかし、これらの真理がどれほど重要であろうと、もし私たちが人々に親切でなく、他者への偏見を態度で示し、文化的社会的先入観によって他者を劣った人間として扱うなら、いったいどんな役に立つというのでしょうか。

真のキリスト教教育は、少なくともこのような人間的弱点や悪を乗り越えさせ、キリストがご覧になるように(その人のためにキリストが死に、その人の罪をキリストが十字架で負い、その人のためにキリストが計り知れない犠牲を払われた、そのような存在として)他者を見るようにする必要があります。もし私たちが十字架を高く掲げるなら(そうしなければなりませんが)、私たちはすべての人の価値と重要性を理解し、神が彼らに与えられた価値にふさわしく、理想的には、彼らに真に値するような扱いをするようになるでしょう。キリスト教教育には、このような教えが含まれていなければなりません。そうでなければ、「キリスト教」の名に値しません。

                                           

火曜日:また、イエスの弟子として、私たちはあらゆる人を尊敬するだけでなく、あらゆる人が成長し、発達できるような場所を提供するためにも働くのです。従って、あらゆるキリスト教教育には、このような宣教意識、目的意識が含まれていなければなりません。つまり、生計を立てるだけでなく、私たちの生活範囲の中でイエスから命じられていることをするのです。イエスの模範に倣い、困っている人を助け、福音の良い知らせを彼らに伝えるということです。

                                           

木曜日:これら初期の信者たちは、福音を最もよく実践できるのは地域共同体の中においてであると、すぐに気づきました。私たちは地域共同体の中にいるからこそ、声を出して歌い、もっと熱心に祈り、もっと気遣い、情け深くする理由があるのです。ほかの人が神の慈しみについて語るとき、私たちは、神がどれほど私たちによくしてくださったのかを感じます。ほかの人の苦しみや痛みを耳にするとき、私たちは自分の人生における神のいやしを感じ、神の恵みといやしの器になりたいという願いを新たにするのです。

きょうの聖句の中で、パウロは、神の福音―十字架の力、主の復活、再臨の約束―がすべてである、と主張しています。全世界にこれよりも良い知らせなどありませんでした。パウロは最大限の誠実さと献身によって、何よりもイエスの物語を伝えるという挑戦に生涯をささげました。

しかしパウロはここで、福音のメッセージは、ともに生きるという行動によって最もよく理解され、体験されうることを示唆しています。私たちは、私たちの生活が聖書の中に見いだされる恵みのメッセージを具現しているかどうか、人々から注視されていることを忘れてはなりません。

                                           

日曜日の学びの最後に、「私たちが十字架を高く掲げるなら・・・・・キリスト教教育には、このような教えが含まれていなければなりません。そうでなければ、「キリスト教」の名に値しません。」とありました。現在わたしは社会福祉の働きをしています。キリスト教社会福祉も同じです。わたしたちが働くところでは、キリストの十字架が高く掲げられなければなりません。それは看板にキリスト教福祉と書くのではなく、助けが必要な方がいたら、見て見ぬふりをせずに手を差し伸べていく、このキリストの愛を実践することが求められています。

菅首相が、自助、共助、公助の順でと就任された時に語っていました。これに関してはいろいろな意見がありますが、現在の日本において自助の基本となる仕事に就けなかったり、そのような時に支える家族関係が壊れてしまっていたり、自助という最低限の生きる土台するままならない人がいます。そして共助と言っても高齢化が進み、都市部では地域の人間関係が希薄です。また労働力不足もあり、政府は労働者を少しでも長く働くようにさせてようとしているため、地域活動の担い手も減っています。木曜日の学びに書かれていますが、キリスト者は地域の中で実践をすることによって、はじめて地域に融けこんで塩としての役割を発揮できるのです。

福祉は、その方が生きていくお手伝いをする働きです。みなさまのまわりにもあなたが心をかけてあげることで、生きる喜びを見つけることができる方がいるのです。失われた人を救うためにキリストは来られました。(ルカ19:10参照) 今日、キリストは「わたしのかわりに、あなたのまわりの○○さんのために働いてください」とあなたに語りかけておられます。