セブンスデー・アドベンチスト教会

ダビデの祈り

ダビデの祈り

私はここ数年、詩編を1日に1編読み続けています。詩編は150編あるので、1年に2回読むことになります。これはある著名な牧師の助言によるものです。

さて、詩編を読んでいくと、「人は困難の中にある。でも神はそこから人を救い出される」ということが中心テーマであることがわかります。苦難の中で、人は最終的にはどんな行動を取るのでしょうか。たいていの場合「祈り」になると思います。そして「祈り」には必ず「感謝と賛美」が伴うものです。ですから、詩編の構成が「祈り」と「賛美」で織りなされているのも理解できます。特にダビデの詩にはそのことがあてはまります。

「わたしの神よ」
ダビデは祈りの中で、しばしば「わたしの神」、「わたしの神よ」という言葉を用いて神様に呼びかけています。その数は60回ほどになります。私たちが祈るときには、「神様」と呼びかけているのではないでしょうか。「わたしの神様」と呼びかけて祈る人は多くはおられないと思います。私自身も祈るときに、「わたしの神様」と呼びかけていません。しかしダビデは「わたしの神」と呼びかけているのです。
イスラエルの民にとって、神は全能の支配者であり畏敬の対象となるお方です。人々は敬虔な思いで近づきました。それにもかかわらずダビデは、「わたしの神(よ)」と呼びかけています。よそよそしさがありません。自分に目を注ぎ、自分を守ってくれる神という強い意識を持っていたに違いありません。このことはダビデが神との個人的な関わりを密に持っていたことを表しています。

助けを求めるダビデ
さて、ダビデはどのような祈りをささげたのでしょうか。ダビデは主に向かって、「わたしの王、わたしの神よ/助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て/あなたを仰ぎ望みます」(5編3、4節)と祈っています。別の箇所では、わたしのために「立ち上がってください」(3編8節)、わたしの「叫ぶ声を聞いてください」(5編3節)、わたしに「立ち帰り……助け出してください」(6編5節)、わたしを「見捨てないでください」(27編9節)、「憐れんでください/神よ、わたしを憐れんでください」(57編2節)、「神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました」(69編2節)などと祈っています。
ダビデの生涯は波瀾万丈でありました。ペリシテ人ゴリアトとの戦い、それを契機にサウル王に仕えます。武勲をたてますが、民衆から王以上の賞賛を受け、それにより王の嫉妬を受けてしまいます。やがては王から命を脅かされることとなり、王から遣わされた追っ手から逃れて荒野をさまようことになりました。サウル王の死後、イスラエルの王に即位したわけですが、息子アブサロムから一時的に王位を奪われて王宮を去るという悲劇にも直面しました。困難の連続でしたが、そのような状況の中にあっても、ダビデは立ち止まって自分の困難な実情を訴えたのです。困難があればあるほどダビデは神に近づく人でありました。

賛美と苦悩、感謝の祈り
ところで、ダビデの祈りにはびっくりするようなものがあります。例えば、「主よ、なぜ遠く離れて立ち/苦難の時に隠れておられるのか」(10編1節)、「いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか」(13編2節)、「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか」(22編2節)、「主よ、いつまで見ておられるのですか。彼らの謀る破滅からわたしの魂を取り返してください」(35編17節)という類の祈りです。
これらの祈りにはダビデの絶望感がにじみ出ています。祈ってもなかなか応えられない。いやそれに留まらず、神様が自分を見捨てられたという苦悩が表れています。近くにおいでになるはずの神様が非常に遠くに行かれたという失望感をダビデは抱いたのです。でもその祈りの最後には、「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び踊り/主に向かって歌います/『主はわたしに報いてくださった』と」(13編6節)、また「わたしの舌があなたの正しさを歌い/絶えることなくあなたを賛美しますように」(35編28節)という言葉になっているのです。切望感と苦悩のただ中にありながらも、神様は自分の祈りに必ず応えてくださるという確信があり、それが最終的には主を賛美するという祈りになったのです。
さて、ダビデの祈りはイエス様に支持されています。イエス様は弟子たちに対して、祈るときには、「天におられるわたしたちの父よ」(マタイによる福音書6章9節)と呼びかけるように教えられました。また賛美と感謝の祈りもささげられています(同14章19節、ヨハネによる福音書6章11節参照)。ゲッセマネの園で、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(ルカによる福音書22章42節)、また十字架上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイによる福音書27章46節)という苦悶の祈りをされました。しかし主の最後の祈りは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカによる福音書23章46節)というものでした。イエス様はダビデ以上に神様と親密な関係を持たれ、その中で心の底から訴えられました。でも最終的には神様のみ旨を求められ、全的にご自身を神様にゆだねられたのでした。

祈りの本質
ダビデの祈り、イエス様の祈りを読むときに、私たちは祈りの本質を教えられます。祈りは神様を自分の個人的な神様として信じることがその土台です。神様がわたしの神様であるならば、私たちは心の奥底から思いを訴えることができます。しかも一度や二度ではなく、継続的に、執拗に祈ることができます。
でも自分の訴えが願うとおりに応えられるという信念は横に置かねばなりません。神様はみ旨にそって私たちの祈りにお応えになるからです。神様が私たちにとって最善の答えを用意しておられることを信じるならば、主に感謝と賛美をささげることになります。私たちの祈りがダビデの、そしてイエス様の祈りにつながるものとなりますように。

●池増信男/いけますのぶお
1957年鹿児島県指宿市生まれ。仙台教会を振り出しに、東日本教区、沖縄教区の諸教会を経て、現在西日本教区の岡山教会、丸亀教会、そして津山集会所の牧師、および中国四国地区長。

アドベンチスト・ライフ2019年7月号