日本の家庭では、大体の親は子どもに「勉強しなさい」と言います。そうでない親もいるのでしょうが、少数派だと思われます。私は子どものとき、「やる気がでない。やる気が出たらやる」と答えていました。すると、「そんな時は決してこないよ。まず始めるんだよ。そしたらやる気はついてくる」と言われてしまいました。今になって思うと、親の言っていたことはかなりの程度真実だったと思います。100パーセントのやる気を求めていたら、そんなやる気はいつまで経っても起こりません。
新約聖書ヘブライ人への手紙11章には信仰の勇者たちの記録が残されています。
「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」(ヘブライ人への手紙11章2節)。
彼らの信仰は100パーセントの信仰として神に受け入れられました。しかし、これは一瞬一瞬の行為ではないのです。すべての人生の行程を走り終えた結果なのです。神は過程における迷いや過ちではなく、最終的な応答をご覧になります。愛人に騙され、目をくり抜かれた、あの愚かな、少なくとも私たちにはそのように見えるサムソンですら、100パーセントの信仰の勇者に数えられています。
信仰のイニシアティブは常に神にあります。私から始まることはありません。私から始まるものは信心であって、決して信仰ではありません。信仰とはまさに信じて仰ぐことだからです。あなたの人生の中で語りかけてこられたその方を仰ぐことだからです。その語りかけを感じたとき、それに聞き従おうとすることだからです。
「話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。シモンは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(ルカによる福音書5章4~6節)。
シモン、後のペテロはイエスの招きを聞いたとき、それに応えました。それは、私たちにはわずか1パーセントの信仰に見えるかもしれません。「しかし、お言葉ですから」と言ったときからペテロの生涯は変わりました。私たちがイエスのお言葉を聞くとき、いつもペテロのように今までの経験が邪魔します。つい「お言葉ですが」と言いがちです。それが「しかしお言葉ですから」に変わったそのときから、主はあなたの人生に介入することができるのです。主の招きを感じたら、すぐ声に出して祈りましょう。声に出して聖書を読みましょう。教会に行きましょう。SNSで友にメッセージを送りましょう。とりあえずの一歩を踏み出しましょう。私たちにはそれしかできないし、それで100パーセントなのです。
*聖句は©️日本聖書協会
アドベンチスト・ライフ2024年6月号
教団総理 稲田 豊