安息日学校部

20190403安河内アキラ解説

2019年第4期「エズラ記とネヘミヤ記」

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第3課 神の召し 10月19日

暗唱聖句   「わたしたちの先祖の神、主はほめたたえられますように。主は、このようにエルサレムの神殿を栄えあるものとする心を王にお与えになり」エズラ7:27

                                           

今週の聖句    エズラ記7:10、ネヘミヤ記1:1~11、ダニエル9:24~27、

ダニエル8章、ローマ8:28、29、ローマ9章、出エジプト記3、4 章

                                           

今週の研究

私たちの人生における神の召しが何であるかを知ることは、必ずしも容易ではありません。それにもかかわらず、聖書は、特定の任務のために神がお選びになった人々の物語であふれています。

興味深いことに、エズラとネヘミヤは、神によって一つの特定の働きに召されました。それは廃墟と化したものを再建することでした。しかし、この場合の再建には、さまざまな働きが含まれていました。彼らは、イスラエルの人々をエルサレムへ連れ戻し、神殿と町を再建しなければなりませんでした。それに加えて、彼らは神について人々を教え、何にもまして、神との献身的な関係へ彼らを引き戻さなければならなかったのです。まさに神からの召しです。しかも、それは重要な召しでした。

                                           

日曜日:エズラはさまざまな理由によって選ばれたと、私たちは言うことができます。①彼は自ら進んで行こうとしました。②彼は指導者でした。③彼は熟練した書記官であり、教師でした。ほかにも理由を見いだすことができます。しかし、なぜエズラにこの任務が与えられたのかをたぶん最もよく説明している聖句が一つあります。

ネヘミヤは神と同胞に対して深い思いを持っていました。彼は、エルサレムでの働きが中断していると知ったとき、思い悩みました。ネヘミヤはこの働きに対して情熱があり、エズラと同様、自ら志願しました。神は彼らの祈りと願いに応えられました。時として私たちは、もし自分が何かに関心を持つと、それは神からのものではないに違いない、なぜなら神は私たちがやりたくない難しい仕事だけをお与えになるからだ、といった考えを抱きます。しかし、もし私たちが神とともに歩んでいるなら、私たちが情熱を持つ何かをしたいという願いが、しばしば神から与えられるのです。神は、私たちが神のためにすることに対して関心を持ってほしいと望んでおられます。

                                           

月曜日:ユダの人々の復興に関して出された命令は、合計3 回あります。キュロス、ダレイオス、アルタクセルクセスの3人全員が、復興のための命令を出しました。しかし、アルタクセルクセスの命令だけがエルサレムの町そのものへの配慮を含んでおり、この命令だけが神の介入に対して神をほめたたえることに関連づけられています(エズ7:27、28)。

私たちは、70週の預言の始まりを紀元前457年、つまりエズラ7:7~26で言及されているように、アルタクセルクセスⅠ世の第七年からであるとみなします。

                                           

水曜日:パウロはローマ9章において、特定の任務への神の選びについて論じています。イスラエルの人々は、神に関する良い知らせをこの世に伝えるために選ばれました。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ロマ9:13)という言葉は、神がこの兄弟の一方だけを愛されたことを意味する、とよく誤解されています。しかし、この箇所の文脈においてパウロが言っているのは、選ばれたのはヤコブであってエサウではなかったということです。何のためにヤコブは選ばれたのでしょうか。イスラエル民族の父となるためです。それゆえ、神がなさる選び(選択)には二種類あります。第一に、神は私たち1人ひとりを救いのために選び、私たちがイエスの姿に変えられるようにと望んでおられます。第二に、神はさまざまな人を特定の任務のために選ばれるのです。

                                           

木曜日:もし私たちが神に召されるとしても、私たちにはその召しを受け入れるか、拒絶するか、選択の自由があります。それは、神が私たち全員に提供してくださる救いを受け入れるか、拒絶するかの選択の自由を私たちが持っているのと同じです。神は私たちに特定の立場をお与えになるかもしれませんが、私たちは神の命令に従わないことを選択できます。確かに神は、御自分に似るようにと私たちを召されるのと同じくらい、神のために特定の任務をしてほしいと私たちに望んでおられます。特定の任務への神の選びは、私たちの救済計画の一部なのです。神が私たちを召してさせようとすることを実行することによって、私たちは自分の生活の中で、神が与えてくださった救いの現実を生きるのです。

サウル王は王の地位を与えられました。残念ながら、彼は自分に与えられた任務にもかかわらず、神に心を完全にはささげませんでした。だれかが神にとって特別なことをするように召されたからといって、それだけで彼が神を受け入れるとは限りません。

                                           

今週は、召しについて学びます。聖書はすべてのものが神さまから与えられていると教えています。わたしたちの能力なども霊の賜物として与えられたものなのです。そうなると使い方が変わるのではないでしょうか。そして聖書の中には、特に特別な役割のために神さまから召された方の記録がたくさん書かれています。神さまは同じようにわたしたちを様々な働きに召してくださって、それぞれの場所に置かれているのです。けれどもパウロのように、直接語り掛けていただくなどと明確にわかればよいのですが、そのようにも行きません。

まず木曜日の学びに書かれていますが、神さまの召しがあったとしても、それを拒絶する自由もあります。しばしばわたしたちには、とてもこれは自分にも重すぎるという道が開かれることがあります。けれども人はできないことを頼んでは来ません。その機会を信じて前進する時に、必ず道は開けます。またその働きに強い情熱がある場合があるでしょう。これも大きな力となって行くでしょう。そして神さまの召しを感じる経験をされた方もいるでしょう。それに安住せず、謙虚に働きを高めて行ってください。

月曜日と火曜日についてはダニエル書の預言とエルサレム再建について書かれています。預言の年代計算と、エルサレム再建はかかわりがあり、その根拠について書かれていますので、ぜひガイド本文をお読みください。