安息日学校部

第3課 聴覚しょうがい者用: 平賀 和弘

2019年第4期「エズラ記とネヘミヤ記ー忠実な指導者を通して神がなしうること」

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第3課 神の召し 平賀 和弘

 

1.安息日午後

神様は、それぞれの人を、ある決まった働きのためにお選びになられます。エズラとネヘミヤもそうでした。神様は、彼らにやって欲しい働きがあったために彼らをお選びになりました。その働きとは、壊されたエルサレムの神殿や町を建て直すことでした。そして、この働きは、ただ建物や町を建て直すことだけではなく、神様とイスラエルの人たちとの壊れた関係をつくり直すことも含まれていました。つまり、エズラとネヘミヤは、イスラエルの霊的回復のために神様から選ばれたのでした。

 

2.日曜日:エズラとネヘミヤの召し

エズラは、なぜ、神様によって選ばれたのでしょうか。それは、彼が、神様を見出そうと決心したためでした。聖書は、「エズラは主の律法を研究して実行し、イスラエルに掟と法を教えることに専念した」(エズラ7:10)と記しています。エズラは、聖書を読んで神様に従い、さらに、そのみ言葉を、イスラエルの人々に教えました。そうやって、神様のみ言葉が人々に伝えられ、イスラエルの霊的回復が行われていきました。

また、ネヘミヤは、なぜ、神様によって選ばれたのでしょうか。それは、彼が、神様とイスラエルの民に深い関心を持っていたためでした。彼は、エルサレムの建て直しの働きがストップしてしまっていることを聞くと、自分もその働きに参加したいと熱心に願うようになりました。もし、私たちが、神様とともに歩んでいるならば、神様のために何かをしたいという情熱が与えられることがあります。

 

3.月曜日:預言のタイミング

神様が、エズラを召されたのは、紀元前457年(アルタクセルクセスⅠ世の第7年)のことでした。それは、アルタクセルク王によってエルサレムの神殿や町を建て直す命令が出された年のことでした(エズラ7:7−26)。さらに、この年は、二つの預言が始まった年でもあります。二つの預言とは、ダニエル書9章の70週とダニエル書8章の2300日の預言です。エズラが神様に召されたのは、神様の大きな救いの計画のためでした。

 

4.火曜日:70週と2300日

エズラ記は、ダニエル書の70週(ダニエル9:24)と2300日(ダニエル8:14)の預言がいつから始まったかを理解するのに役立ちます。二つの預言は、紀元前457年から始まりました。神様の預言と実際に起こった出来事が、驚くほど正確に一致していることがわかります。

・B.C.  457年:70週と2300日の預言の始まり。エルサレムの神殿と町の建て直しの命令。

・B.C.  408年:エルサレムの神殿と町の完成。

・A.D.   27年:救い主の到来。

・A.D.   31年:十字架。

・A.D.   34年:70週の預言の終わり。ステファノの死。異邦人伝道の始まり。

・A.D.  538年:1260年の法王至上権時代の始まり。

・A.D. 1798年:1260年の法王至上権時代の終わり。

・A.D. 1844年:2300日の預言の終わり。イエス・キリストの天の至聖所での奉仕の始まり。

 

5.水曜日:神の選び

神様が、人を選ばれるには、二つの目的があります。一つは、神様はわたしたち一人ひとりを救い、わたしたちがイエス様に似たものとなるためにお選びになります。神様は、召し出した者たちを義とし(義認し)、栄光を与えて(聖化して)、わたしたちをイエス様のように変えてくださいます(ローマ8:30)。

もう一つは、神様は人をある決まった働きのためにお選びになります。たとえば、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ローマ9:13)という言葉は、神様はヤコブだけを愛しエサウを憎んだという意味ではなく、ヤコブもエサウも愛しているけれど、ヤコブをイスラエル民族の父とする目的のために選ばれたことを意味しています。

 

6.木曜日:私たちの責任

人は、選択の自由(自由意志)が与えられています。神様がわたしたちを召される時、神様の召しを受け入れるか、拒むか、わたしたちは選ぶことができます。それが、わたしたちの責任です。エズラやネヘミヤは、喜んで神様の召しを受け入れました。また、モーセは、「自分は力不足でとても神様の働きをすることはできません」と反論や言い訳をして、神様の召しを拒みました。しかし、最終的に、モーセは、神様のお守りを信じて、神様の召しを受け入れ、自分に与えられた働きを忠実に行うようになりました。

 

7.金曜日:さらなる研究(話し合いのための質問)

・あなたは、神様のために何かしたいと、神様から情熱を与えられたことはあるでしょうか。

・神様の召しを拒むために、わたしたちは、どんな言い訳をすることがあるでしょうか。