セブンスデー・アドベンチスト教会

キリストは十字架の上で祈られました。

キリストは十字架の上で祈られました。

キリストは十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)。罪人はみな、自己分裂、自己矛盾の支配の中で罪を重ねていきます。主張する義が、神のみ旨から遠く離れていることの自覚もありません。そのような罪人を憐れまれて、キリストはご自身の命を与え、執り成しの祈りをささげてくださいました。それほどまでに罪人を救いたかったからです。
十字架の死の恐怖の前に、キリストは「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました(ルカによる福音書22章42節)。すべての道で、父の御心を行うこと、ただそれだけがキリストの願いでした。十字架上に永遠の死を死ぬことは、人間イエスにとって容易なことではありません。汗が血のように滴り落ちるほどの葛藤の中で、キリストは苦しみ悶えるように祈られたのです。しかし、私たち罪人の救いのために彼が十字架に死ぬことが父の御心であることは明らかでした。その御心に生き、死ぬことができるようにと戦いの祈りをささげられたのです。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです」(ヘブライ人への手紙5章7~10節)。
キリストの贖いの業は、祈りなくしては成し遂げられませんでした。私たちの救霊の働きも同様です。祈りなくしては決して果たせないのです。祈りなくして、私たちはキリストとつながり一つになることはできません。一つの思いとなって人々の救いのために献身することができないのです。祈りなくして私たちは、キリストから命も力も愛もいただくことができません。聖霊を受けることはできません。救霊の知恵も力もただキリストにある時に与えられるのです。
「私たちの機関の働き人に最初に教えられるべき教訓は、神に依存するという教訓です。どの分野でも、一人ひとりがキリストの言葉の真理を受け入れなければなりません。『わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである』」(『教会への証』第7巻194ページ、英文)。
「主は私たちのために大いなることを喜んでしてくださいます。私たちが勝利を得るのは、数を通してではなく、魂を完全にイエスに委ねる時なのです。私たちは、イスラエルの全能の神に信頼し、イエスの力に満たされて前進することができます」(『神の息子、娘たち』280ページ、英文)。キリストの祈りを祈りつつ救霊に献身しましょう。

教団総理 島田真澄 アドベンチスト・ライフ2016年11月号